たんぽぽの心の旅のアルバム

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2008年8月‐12月『フェルメール展』_光の天才画家とデルフトの巨匠たち(5)

2018年04月15日 18時28分22秒 | 美術館めぐり
会場で購入した公式カタログより

「デルフトの文化と社会

 デルフトで唯一、公認されていた信仰は改革派教会であった。しかし、カトリックの「隠れ教会」は黙認されていたし、イエスズ会さえ制約されていなかった。とはいえ、カトリック教徒、レモンストラント派のみならず、ルター派やメノー派のような非カルヴァン派の宗派も含め、カルヴァン派以外の信仰を奉ずる者は公職から締め出されていた。ただし、オランダの他の地域と同様、同時代の西洋のスタンダードであった価値観に従って、この時代を支配していたのは宗教的寛容だった。1620年には、カルヴァン派は多くの少数派宗教の一つであり、人口のおよそ4分の1を占めるに過ぎなかった。他の多くの市民はいずれの教会にも属していなかった。デルフトは、事実、南部からの移民を阻止したので、レイデンのような都市に比べ、正統のカルヴァン派住民の増加を抑えることになった。改革派教会に加わったことのないフェルメールが、聖ルカ組合の理事、また市民防衛隊の隊員になれたという事実は、デルフトの指導者たちの保守的言動にもかかわらず、実際の社会が寛容であったことを物語っている。

 事実、かつて聖ルカ組合は、フランドルの移住民が入会したために会員数が急激に上昇したことがあった。1570年から1610年にかけて、その数が40人から100人近くまで跳ね上がったのである。しかしながら市議会は、美術市場の統制を決定し、聖ルカ組合の総数と市外からの美術品輸入を制限する法律を制定した。組合員の数は、17世紀中頃を通じておよそ50人とかなり安定していたが、事実上ほとんどの美術市場と同じように、1672年以降は急速に減少し、1680年にはわずか31人となった。聖ルカ組合は画家、彫刻家、陶工、版画制作者、刺繍職人によって構成されていたが、組織の統括に最も影響力を及ぼしたのは画家だった。アムステルダムのような大都市と比較した場合、美術取引を統制する努力はかなり成功したと思われる。活動は制限されていて、デルフト外で制作されたすべての美術品の公的及び私的売り立ては、ごく少数の例外的な競売はあったものの、禁止された。しかし、相対的に閉鎖的だったデルフトの市場にも市外の作品がもたらされることがあった。宝くじや慈善富くじなど、非正規の営みを通じて入ってくる作品である。1631年に市民防衛隊が有名なコンテストを実施するが、そこで配られた賞品もその一例である。」

                           もう少し続きます。

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