(慶応義塾大学通信教育教材;三色期2000年1月(No.633号)より)
「「夫婦別姓」と社会問題の社会学-草柳千早
1.「社会問題」とは何か
現代社会は多くの問題をかかえている、というのは誰もが感じていることだろう。具体的にどんな「問題」か、と問われれば、人により、時期により、その答えはさまざまであろうが。では、「社会問題」とは何か。それを定義しようとすると、ただちに困難が生じる。「社会問題の社会学」は、常にこの難問と共にあった。
例えば、伝統的な機能主義にとって、「社会問題」とは、社会に対して逆機能的であるような「社会状態」のことであった。いわば、社会的に望ましくない、困った「状態」である。また、規範という概念を用いて「社会規範から逸脱している状態」という言い方もされてきた。こうした定義は、私たちが普段漠然と思っている「社会問題」の味方に馴染みやすいが、少し踏み込めば重大な疑問に突き当たる。すなわち、ある「社会状態」が「望ましくない」という判断は、いったい誰によっていかに下されるのか、という疑問である。機能主義の答えは簡明なものだった。専門家が科学的も診断するというのである。あるいはまた、「多くの人々」が「望ましくない」、と判断したものをいう、ともいわれてきた。だが、果たしてそれでいいのだろうか。そでは「専門家」に認められなければ「問題」とは認められない、ということになるのではないか。あるいは「多くの人々」とはどのくらい「多く」なければならないのか。少数者の訴えは認められない、というのか。
こうした疑問に対して、画期的な視点を社会問題研究の領域にもたらしたのが構築主義と呼ばれる立場であった。1977年の『社会問題の構築』において、スペクターとキツセは、従来の「社会問題」の定義をことごとく退け、社会問題研究は、人々の「社会問題」を定義する活動、クレイム申し立て活動に焦点を当てるべきであると主張した。何が「問題」なのかは、人々の定義活動に依存する。人々のクレイム申し立てによって「問題」が定義されてゆく社会過程、これを研究しなければならない、というのである。
こうした発想は、かつての、専門家が人々の頭越しに「正しい」診断を下し得るとする発想とは対極のものであり、より妥当な考えであるように思われる。後にもみるように、現代のような複雑な社会では、何がどう「問題」なのかは、人々の置かれた状況、立場によって著しく異なってくる。専門家であればそうした状況を離れて自由にあるいは「客観的」に判断することができるなどと素朴に想定することもできない。
人々が何を「問題」として定義し行動するか、その過程をみることは、人々の経験のリアリティに即して「問題」を捉えようとすることである。そのことはまた、「問題」を人々の観点に依存すると考える、いわば「社会問題の相対主義」の立場を取ることでもある。構築主義によって、人々のリアリティに即して「問題」に接近しようとする新しい「社会問題研究」が切り開かれたのである。
2.構築主義的視点は、日本社会におけるさまざまな「問題」を見る際にも有効な資格を与えてくれる。
現代社会では多くの「問題」が、何がどう「問題」なのかtおいう定義をめぐる争いを含んでおり、その過程に照準することなしに研究者が一義的にあるいは特権的に「問題」を規定するならば、それ自体、ひとつの立場からの定義活動となるだろう。構築主義は、そうした研究者の活動をも含めて、人々の「問題」定義の過程に目を向けるのである。私は、1980年代中頃から活発化した夫婦別姓運動に関心を持ってきたが、この問題もまた、構築主義的に見るならば、何が「問題」なのかをめぐる争いとしてきわめて興味深い。
夫婦別姓については今更説明するまでもないだろう。簡単にいえばそれは、現行の夫婦同姓制度に対して、夫と妻がそれぞれの姓を保持できるように求める主張である。1980年代から市民運動および世論が高まり、すでに国会で審議されるまでになっているものの、保守層の根強い反対で未だ法改正に至らない、という状況にある。
いうまでもなく、夫婦別姓問題は単なる姓の問題ではない。夫婦同姓は、現行の民法家族法で規定されており、さらには明治の旧民法における「戸主及び家族はその家の氏を称す」および「妻は婚姻に因りて夫の家に入る」に遡る。明治以来、日本には、「家族」は同じ姓、とう「常識」が浸透してきた。婚姻夫婦の姓の問題は、法的にも社会的にも、人々の意識においても、「家」意識、家族観と切り離すことができない。それhあまた、戸籍制度という国民管理の根幹部分とも関わってくる。その意味で、多くの問題領域と絡んだ、微妙な問題といえるだろう。
そんななかで、夫婦別姓問題に関わる人々にとって、これは一体どのような「問題」であるのか。人々の言説を辿ってみるならば、まず、夫婦別姓を求める人々の主張は、いうまでもなく、現行の「同姓強制」制度に「問題」を見出す。例えば、東京弁護士会、女性の権利に関する委員会(1990年)は、(1)自己喪失感、(2)配偶者間の不平等感、(3)家意識の残存、(4)個人としての信用、実績の断絶、(5)改氏に伴う手続きの煩雑さ、などを列挙している。平等や個の尊重といった理念から「問題」が語られることがあれば、女性も社会においtえ一個人として活動している現代では結婚改姓は不便や不利益を生じる、といったような、実際上の不合理が語られることもある。あるいは、アイデンティティの問題として語られもする。
これに対して、真っ向から逆の「問題」を指摘する声が存在する。夫婦別姓を認めると「家族の一体感を損う」「家族が崩壊する」といったものがその代表的主張である。それによれば、夫婦同姓は日本の家族秩序の基礎であり、これを軽率にも変えることは重大な結果を招く、というのである。
こうした「問題」定義の対立のうちには、明治以来の「家」意識、家族観と、より新しい家族・夫婦観、あるいは個人観とがせめぎあっていることが分かる。「個の尊重」に対して「家族の一体感」、「家意識の残滓(ざんさい)」に対して「個人主義の行き過ぎ」等々。両者は現代社会において混沌と共存してきたものであろう。その矛盾が「夫婦別姓」という形をとって顕現しているといえるだろう。
3.「問題」を語れない経験
ところで、夫婦の姓をめぐる言説を辿り、また夫婦別姓運動に関わる人々の話を聞いていくうちに、私はそこに、ある一定のパターンがあることを否応なく意識するようになった。
まず、夫婦別姓反対論に頻繁にみられるレトリックがある。それは、夫婦別姓を求める人々自身を「問題」と定義するものである。夫婦別姓という考え方に対してではなく、そのような考え方を支持する人々に対して言及し、その存在を揶揄するなどして攻撃するのである。「大人げない」「軽薄」「わがまま」「一部の特殊な人」等々。すなわち、夫婦別姓を求める人々が現行の制度を「問題」と定義しようとするのに対して、反対者たちは、そのような人々にこそ「問題」がある、とする。「問題」は「人格」に還元されているのである。
他方で、夫婦別姓を求める人々の側には、日常生活の場で、周囲の人々に自分の考えを語ることができない、という声が存在する。「理解してもらえると思わないので話さない」「あえて波風は立てない」「反対しそうな人とのその話題は逃げている」等々。日常生活のなかで、「問題」について語らない、という選択が往々にしてなされているのである。ここには、各人の感じている「問題」を語ることに対して、それを抑圧する作用があるものとみることができるだろう。調査によれば、彼女たちの多くが、夫婦別姓について周囲の人々に話して「わがまま」だと言われた経験を持っている。これは、先にみた反対論のレトリックと対応しており、そうしたレトリックが抑圧的に作用しているひとつの要因であることは否定できない。
構築主義は、「問題」を定義する活動の過程に照準することを提案した。そして、そうすることによって、私はそこに、「問題」について語れない、語ることを抑圧する、という過程を「発見」したように思う。たしかに、夫婦別姓をめぐる言論は、新聞や雑誌、国会や地方議会などさまざまな場で展開されている。その過程を見ていくことはできる。しかし、その背後に、「問題」を感じていても「波風」が立つことを避け、あえて語らずに過ごすという日常、「問題」への言及に抑圧的であるような日常の過程があることを見過ごすことはできない。そしてこれは、夫婦別姓問題に限らず、他のさまざまな「問題」をめぐるコミュニケーションにおいて、ある程度一般的にみられることなのではないだろうか。
4.日本的日常と社会問題の社会学
構築主義の社会問題研究が提唱されたのは、1970年代のアメリカにおいてであった。何が「問題」は、人々の定義活動に依存する。その主張の背景には、公民権運動をはじめとする異議申し立ての時代があった。構築主義の提唱者たちは、有色人種、女性、同性愛者、精神病患者、売春婦といった「逸脱者」「マイノリティ」たちが、自らの権利を主張し、既成の道徳・価値を覆そうと声を上げる、その事態を、社会問題・逸脱の課題として引き受けたのである。
90年代の日本でも「社会問題」をめぐるさまざまな「クレイム申し立て
活動」や「運動」が展開されてきたことは間違いない。しかしながら、私たちの日常に目を向けるならば、私たちは何か「問題」を感じたからといって、必ずしも直ちにそれについて積極的にかたり「現状」を変えていこうと「活動」するとは限らない。いやむしろ「波風」が立つことをできrうだけ避け、平穏なルーティンを大切にし、それをあえて乱そうとする者の方を、往々にして「問題」視してしまいがちではないだろうか。
また総務庁の『世界青年意識調査』(1993年)によれば、日本の青年は、社会に不満を感じても、積極的な行動はとらない、かかわり合いを持たないとする者がとても多い。その理由の第一位は「個人の力では及ばぬところに問題があるから」(67・5%)である。
このような現代日本の状況を考えるとき、私たちには、70年代のアメリカに出自する構築主義において想定されていたであろう「問題」観、「主体」観とはやや異なるそれらが必要であるようにも思われる。それは私たちの日常にくすぶりやり過ごされている「違和感」のようなものであったり、自分の感じていることを言葉にしない(できない)曖昧さや弱さを生きる主体であったりするであろう。そしてまた人々の経験が日々積み重なりつつ過ぎていく日常生活であるだろう。現代日本の日常を前にして、社会問題研究は、すでに「問題」が認知された社会的に取り組むべき課題として承認されている「問題」のみならず、日常性のなかで、日々の言葉において浮んでは消えていくような「問題経験」の過程に向けても、その感受性をさらに鍛えていくことができるのではないだろうか。」