「1月13日
地上における天国は、人間がたえず神のみこころと合一することよりほかに、もはやなにものをも熱望しなくなった時からはじまる。来るべき天国も、それ以外のものであるはずがない。同じように、この心境に到達しない人間が、天国へ入るのにふさわしく、そこで心地よく感じようとは、理屈からいっても考えられないことだ。」
「1月14日
うしろを見ないで、つねに前方を見なさい。最後には、この世の命をこえてかなたを見なさい。あとをふりかえるのはなんの益にもならない。ただし、まだ改めうることを改めうるためや、過去の失敗をこんご用心するためや、または、ひとから受けた恩義に感謝をもって報いるために、そうする場合は、また別である。」
「1月16日
神の恩寵にあずかっている事実は、普通、次の二つのことではっきり認められる。まず第一に、往々全く突然、なんらの外的原因もなく現れてくる超地上的な喜びによって。しかし一層確かなしるしは、そういう人が、エゴイズムと結びついた事柄では決して成功せず、むしろ困難なこと、常ならぬことでは不思議と立派に、しかもたやすく成功することである。」
「1月17日
真の内的生活に達する場合、個々の魂がみずからの内に経験する成長の過程は、普通、次のとおりである。
まず第一に、不満足な世俗的努力から転じて神を、悪や無関心から転じて善を「仰ぎのぞめ」という段階である。イザヤ書45の22。
つぎには、「まず神の国を求めよ」、すなわち、なによりも先ず、他の努力の片手間でなく、あるいはそれと同時でなく、求める段階である。マタイによる福音書6の33。
それにつづいて、すべて本当に必要な者、ひとを益するものは、つねに必ず得られるという確信が生じる。ヨハネによる福音書15の7,16の24。
そのようにして最後に生じるのは、絶えざる内的平和とこの世の克服である。実際この世には、どんな恵まれた運命にあっても、不安と心労しか存しないのだ。ヨハネによる福音書16の33・
人生はたえざる克服か、もしくは屈服である。地上においては、いかなる人間にもそれ以外の道はありえない。
ヨルダン河のほとりで(中命記10および11)
ああ、真にすこやかになりたいと願う者よ、
最後に、働くのをやめて静かに坐し、言うがよい、
ああ、主よ、今こそ私をおつれ下さい、
まだ善き人間になれない者ながら。
信心におごる気持を絶やし、
わがままな心と争いとをなくして下さい。
この世のいつわりの快楽を、わたしに
しんから苦いものにして下さい。
おのれの力では浄い人になれません、
その前にあなたの祝福を受けなければ。
そうすればあなたは忍耐づよく、愛をもって
わたしのすべての罪をゆるされる。
わたしの運命をあなたの選びにゆだね、
ふたたび河に網を投げ入れる。
あなたの愛がわたしの最後の目的であるように、
主よ、さあ、あなたの愛のみわざを始めて下さい。」
「1月19日
自然的素質や生の目的の点で、人間は動物と同様だという考え方を、あなたの確信としてはならない。むしろ、このような近代的見解に対しては、全力をもって抵抗しなさい。なんと言っても、そんな考え方は、せいぜい科学的仮説にすぎず、しかもその仮説の証明はまだなされていないし、永久になされないであろう。
ダーウィン主義の思想と対決するには、生活を支配するほどの確固とした信念がなければならない。
現代の人間が、単なる哲学的思索によって、あるいは近代的自然科学と宗教とを結びつける試みによって、確固たる神の信仰に到達した例を、私はかつてみたことがない。このような信仰は、むしろ実践的要求から生じる場合がはるかに多い。というのは、外的な幸福もそうだが、とりわけ永続的な内的満足に達する道は、それ以外には全く見出せないからである。高きを求める個々の魂にとっては、深遠な理想主義とも十分一致する霊的存在に対する信仰と、さらに(人間の本性の最下等の本能によってではなく)最高の理念によって支配される世界に対する信仰とが、生きるための切実な要求である。このような信仰がなければ、自己の存在を理解することはできないし、また、人生のあらゆる困難にもかかわらず、心やすらかに、生存をつづけることができない。そのような人びとのために、イギリスのある女流詩人が次のように歌っている。
いや、ためらうなーいと気高きものを求めのは、
たしかな善、あなたのただ一つの善である。
あなたにはもうそれがわかった。あの崇高なみ姿が、
あらゆる卑しい選択を永久にしりぞけたから。」
「1月21日
祈りは単純、かつ誠実に、すこしも形式にこだわらずに、なされねばならない、それだけでなく、なお祈りに対する神のお答を聞くことができなくてはならない。そのためには、日常の騒々しさや利己心にすこしも妨げられない、微妙な心の耳が必要である。」
「1月22日
朝、目ざめると同時にまっ先に意識にのぼる考えが何であるかは、非常に大切である。その時あなたは普段さまざまな偶然の原因から起るその時どきの「気分」に身をまかせるか、それともあなたの生活の手綱をしっかり自分で握るつもりだろうか。今日もまたさっそく、目さきの心配や苦労から始めるか、それとも新しい命の朝に対する感謝から始めるか。神との結びつきを新たにしようとするか、それとも、自分だけの力で「生存競争」を再開するつもりだろうか。どちらにするかで、その日の運命はきまるのである。」
「1月24日
「あすのことを思いわずらうな。一日の苦労はその日一日だけで十分である」(マタイによる福音書6の34)
この有名な言葉の後半はきわめて明白である。そこで、だれでもすぐこう言う、前半の命令も、それが実行できることでありさえすれば、よろこんで賛成したい、実際そうなれば人生はずっと楽になるだろうから、と。だが、この言葉は実行できるものである、ただし神の導きに従うかぎりにおいて。実際、神の導きは最もすぐれた人間の知恵よりもはるかに賢く、ことのその企て給う時期を失することがない。人間の知恵は往々周りの状況や自分の力をひどく見そこない、えてして「自分の足をまだ大きすぎる靴に入れ」がちである。」
「1月26日
マタイによる福音書20の25-28のキリストの言葉は、最善の人たちでさえ、辛うじて、しかも多くのにがい経験をへたのちに初めて、納得することができる。なぜなら、こういう人たちでも、いつも他人に仕えてばかりいるのをよろこばず、また自分の生活の楽しみを控え目に静かにしようなどとは思わないからだ。(略)いずれにしても、慰め、治療、ゆるしなどのような特別な「能力」は、それを奉仕のために用うる意志がないのに、授けられるものだと考えてはならない。これこそ、今日の教会や宗教団体の上に立つ多くの人たちが、あまりにも力を失ったことの隠れた原因である。このような力は、それを正しく用いようと心がける人びとには、つねに備えられてあるものだ」
「1月27日
近代の自然科学と宗教とを和解させようとしたり、すべての自然現象をいきなり宗教的に説明しようとするすべての企ては、あまり効果がなく、また現代人の精神にとってはかなり無益でもある。自然科学は学問の全領域にわたってできるだけ広く解明しようと努むべきであるが、その祭、科学的に説明しえない仮説から出発してはならない。自然科学はそのような活動範囲で満足すべきであって、学問的に究明しえないものは、科学にとってばかりでなく、一般的にも存在しないなどと主張すべきではない。ここに本来の論争点がある。われわれも自然法則を信じる。しかしこれは「法則」であるからこそ、決して偶然に、あるいはひとりでに出来あがったものではなく、自然を造りこれを支配する霊的存在を前提とする。(略)
神が実在すること、そして完全と慈愛とが神の本質であるという事実で、われわれの地上生活には十分でなければならない。その上、神は、われわれの行いを裁く点でも、われわれが想像する以上に、いやそれどころか、われわれが望む以上に、無限に偉大であることをわれわれは疑わない。われわれは神を把握することも、定義したり公式的に表現することもできない。だが、神を愛することはできる。そうして出エジプト記20の5・6および34の10においてすでに古代イスラエル民族に約束されたことを経験することはできる-これは今日でも当時と全く同様に経験しうることである。
このような神についての経験が、『ファウスト』の、それ自体美しく、しばしば引用される詩句には欠けている。なるほど「名前はひびきであり、煙である」「だれがそれを神と呼んで、私はそれを信じます、などと告白できようか」(『ファウスト』第一部3432行以下)というのは、もっともである。しかしわれわれの生活に影響すべきものは、名前の背後にある実在である。それを経験したならば、主人公ファウストの生涯は-そして作者ゲーテの生涯も-ちがったもの、よりよいものになりえたであろう。」
「1月29日
われわれの内的人間が外に現れている人間とどのような結びつきにあるかは、われわれにはまだ十分に理解されていない。しかし神の感化を受けうるのは、ただ内的人間だけである。聖餐を受ける式も、この内的人間に向ってなされるのであって、外的人間に対してではない。」
「1月30日
愛というのは。人をあざむきがちな、あるいは少なくともしばしば実行しがたい言葉である。人間に対しては同情が、神に対しては信頼と感謝が正しい感情である。すべての人間をほんとうに愛したいと思っても、それはなかなかできないことであり、ただ大きな幻滅と、最後にはベシミズムに陥るだけである。だれにも親切で、だれにも同情をよせ、決して憎しみや恐怖や怒りを抱かないということならば、それはできよう。日ごろ「キリスト教的愛」などとやたらに言いたがる人たちにかぎって、かえってそれのできないことが多いものだ。
愛のない人としきりに交わるのは、魂をそこなうものである。だから、やむをえない場合は、むしろ交際をへらすか、それとも全くそれを絶つべきである。」
「1月31日
われわれは、すでにこの世において次のような幸福を知らなければならない、すなわち、どんな事情のもとでも、また、だれでもみな、手に入れることのできる幸福がそれであり、そして、われわれの状況が他の点でどのようであろうとも、つねに喜びをもって心を満たしてくれるような幸福である。このような幸福を得させるのが、哲学の理想的な任務であろう。もしそれができなければ、どんな立派な「体系」を持とうとも、本来、哲学などというものはわれわれの役にはほとんど立たないものである。
経験上から言うと、このような幸福をもたらすものは、ただ神への信仰、神のそば近くあることの実感、および、有益な仕事だけである。すくなくとも私はこれ以外に確実な方法を知らない。また私の知るかぎりでは、これ以外の道を発見した者はこれまでまだ一人もいないのである。」
(ヒルティ著 平間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために(第一部)』岩波文庫、42~60頁より)