たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『東北歴史紀行』より-降り残してや<ひらいずみ>

2024年02月09日 17時29分05秒 | 本あれこれ

「平泉は、日本史上、可能性の実験の歴史です。ありうるけれども、実際には事実になりにくいことが、ここではつぎつぎと現実になり、それらの不思議がよりあつまって、平安末期百年の歴史をつづったのです。その時期は、ほとんど12世紀いっぱいに重なります。

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 地方の豪族が、地方の独立を達成する目的で、自前資本でつくった都市でうす。

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  夏草や兵どもが夢の跡

 芭蕉は平泉に減んだ義経主従のむかしに、そう手向け(とむらい)の句をよみました。わたしたちはそのこころをさらにひろげて、平泉の歴史そのものに
、大きい日本の転換に身みずから立ち合いながら、さらに大きい歴史の波にのみこまれて消えていった非情を、思いやるべきでないでしょうか。「五月雨の降り残してや光堂」の句は、その意味でほっとするる救いの句です。あの豪華、あの絢爛が、みごとこの一堂のかがやきのうちにつなぎとめられているのでないか。平泉はたしかに残ったのです。

 

-藤原氏の出-

 平泉の前には、前九年の役、後三年の役という戦いがありました。前者は安倍氏、後者は清原氏がおこしたものですが、これとたたかった源氏は、やっとのことで、これに勝ったという苦戦をしいられました。藤原清衡という人は、その安倍の外孫(安倍頼時の娘の子)、清原には義子(清衡は清原の養子)に
当たります。後三年の役のあとは、源義家に協力して勝利者の一人になり、義
家が政治的立ちまわりに失敗して、都に召喚(呼び返される)されてしまい、
国府や鎮守府(軍政府)が有名無実化したあとをうけて、東北政治の請け負い
人のようになって、事実上、東北の第一人者の地位にのし上がったのです。す
でに半世紀も前から実験ずみの東北武家政権の構想を、実行に移したものだっ
たのです。素地はすでにできていたのです。平清盛が京都でおこなったことを
二十年前に、また源頼朝が鎌倉に組織したものを百年前に、平泉に実現したもの。大まかにそう考えてよいのです。そして京都的なところは平家に似、みちのくえびすであるところは、あずまえびすの鎌似で、平家と源氏の間の政治。そんなふうに言ってよいとおもいます。

 藤原氏というのは、京都の藤原に関係があってのことか、それとも勝手にそう名のったのか。昔から議論がありました。最近、前九年の役の直前、奈良の興福寺を修理するときの記録に、清衡の父の藤原経清(つねきよ)という人が、摂関(摂政・関白)藤原の一族の中の、陸奥国司の一人として出ていることがわかって、京藤原氏の出であることが、はっきりしました。だからいわゆるエゾの出身でありません。ただ、経清は、エゾの首長(停囚長ふしゅうちょう)とされる安倍頼時の娘と結婚して、土着します。清衡には安倍の血が流れています。もう一人のエゾ首長(停囚長)の清原家に養われ、すっかり東北武士化しています。そんなわけで、もともとの血統のいかんにかかわりなく、政治的に東北現地の利益代表者だったのですから、都ではこれをエゾ代表とみなしたのです。藤原氏もはっきりそう言っていました。そこに平泉政治の新しさがあったのです。

 

-平泉文化-

 記録をみますと、建物という建物、仏像・仏具、みな金か銀、七宝に飾り、万宝をつくしたとあります。金色堂をみても、実際、そう思わないわけにはいきません。東北は、日本唯一の産金国とされていました。その金を思うよう鬼使ってこれらの寺を建てたのだから、日本一の黄金文化になることができたというのですが、それにしても、どうしてこういうものをつくる気になったのでしょうか。

 藤原氏は、聖徳太子や聖武天皇が、仏教興隆に託した夢を、平泉における仏教興隆に同じように追い求めたのです。地上極楽をここに実現しようとしたのです。極楽は人間の考えうる美の極致です。だからこのような黄金文化である必要があったのです。藤原氏がミイラとなって葬られているのも、このことに関係があります。法華経には、地上に極楽が実現するまで、ほとけさまは、眠ったようなお姿(入定相にゅうじょうそう)で棺の中にとどまって、極楽の実現を待ち、見届けるとあります。法華経信者だった藤原氏は、この信仰に立って、入定相(肉体をとどめて眠っている姿)に葬られ、ミイラになったと考えられます。

 東北古代のユートピア(理想世界)歴史。そんなことになるかもしれません。

 中尊寺には、当時そのままのものとしては、金色堂しかありません。しかし、金色堂はただ一つで、平安時代美術工芸のすべてを代表する意味をもっています。讃衡蔵さんこうぞう(宝物館)に陳列されている仏像・仏具・工芸品を加えますと、中尊寺では、平安美術・工芸を考えるに必要なものは、ひととおりみなそろえることになります。天平美術・工芸は正倉院が代表する。平安美術・工芸は中尊寺が代表する。美術史家たちはそういうのです。毛越寺の庭園がこれに加わって、平泉は、いまは京都にもない京都を保持する小京都になっています。東北が日本そのものになりきっている歴史です。かみしめるようにして見てまわりましょう。

-義経と平泉-

 どうして義経は平泉に、二度も来ることになったのでしょう。しかもその義経との出会いが、平泉の滅亡のきっかけになります。よくよくの因縁です。東北は、エゾの国、道の奥です。国家政治の手がよくとどいていないところです。平泉はそういうところに成立した地元政治の都ですから、はじめから治外法権の国のようにみなされていたところです。朝廷の政治犯のようなものは、ここに島流しになりました。なにかたくらむところのある者などは、よくここに流れこんできました。亡命にはもってこいのところです。義経も、そういう意味の亡命者のひとりとして、ここに来たのです。藤原三代秀衡という人は、清盛・頼朝に劣らぬ政治家でした。鎌倉の最後の手が平泉にのびてくることは、はじめから予想していました。これを事前に阻止するには、鎌倉が攻めても勝てない防衛態勢をかためて、頼朝にはじめからその計画を断念させるのが一番だと考えたのです。それが秀衡と義経の関係です。義経は戦争の天才です。それに平泉の武士をつけ、秀衡がかじ取りをすれば、鎌倉にも負ける気づかいはない。そういう戦略だったのです。

 この軍事同盟は成功しました。秀衡が生きているうち、頼朝はなにもできなかったのです。しかし、それは秀衡あっての戦略でした。義経もそれを知っていました。秀衡が亡くなると、内部に分裂がおこります。義経が邪魔になってきます。義経はころされ、平泉がなにもできないところを見すかして、頼朝は立ち上がったのです。平泉は滅んだのです。文治5(1189)年のことでした。

 戦後の昭和25年、金色堂のミイラ調査がなされました。義経党だというので、兄泰衡にころされた秀衡三男忠衡首と伝えられてきた首級の調査もなされました。無数の刀傷がいたましく見える中に、ひときわいたいたしかったのは、眉間から後頭部にかけて、太い鉄釘が貫き通っているあとでした。これは首をはりつけにしたあとなのです。忠衡がそんなことをされるはずがありません。これに対して、泰衡は部下にころされ、首が頼朝にとどけられたところ、頼朝はこれをはりつけにしたことが書かれています。それでこの首は、四代泰衡のものとわかりました。泰衡の首は、敵将頼朝のはからいで、父祖の眠る金色堂に帰ることができたのです。

 はじめは、ただ金色堂だけを見るつもりでした。平泉はもっともっと大きかった。そういう実感です。これは大きな発見です。」

 

(『東北歴史紀行』84~96頁より)

 

 

上野の国立博物館で中尊寺展開催中。電子チケットは購入済。時間指定必用ないと逆になかなか体が動きませんが来週は気温があがるもよう。いつまでいけるかわからないのでなんとかいかねばと思います。旅日記を振り返ると若き日の自分は殆どなにも感じなかったようです。今の自分でなにを感じるか。

 


山中泉 タッカーカールソンのプーチンへのインタビュー

2024年02月09日 10時21分43秒 | 気になるニュースあれこれ

山中泉 タッカーカールソンのプーチンへのインタビュー (youtube.com)

タッカー・カールソンのプーチン大統領のインタビュー予定時間 日本時間9日(金)8:00am (米国東海岸時間18:00pm) より、今までのように、ライブでタッカーのインタビューを”同時ライブ解説”行います。 山中泉チャンネルでぜひご視聴ください。