たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

通信教育レポート-西洋史概説Ⅱ

2023年09月13日 14時57分03秒 | 日記

課題;17世紀からのイギリスの植民地進出と経営について説明しなさい。

 ヨーロッパの拡大は、十字軍の運動以来みられるが、大西洋を舞台にするのは15世紀からであった。この大西洋に乗り出したヨーロッパの拡大の時期を大航海時代という。その推進者は、ポルトガル・スペインであった。両国の成功に刺激され、イギリスも半世紀以上おくれて航海運動に乗り出した。しかし、16世紀にはまだ、ポルトガル・スペインの勢力範囲の隙間をぬって、主に北アメリカに実験的な植民地建設を試みるにとどまっていた。

 

 16世紀後半のエリザベス女王の治世になって、女王や政府から敵国の船舶を襲撃する許可状を与えられていた船乗りたちが、カリブ海地域において、植民地から帰航しようとするスペインの船を襲っていた。これが大きな要因となってスペインとの対立が増し、1588年、スペインのフェリペ2世は、無敵艦隊によるイギリス襲撃を企てる。これを破ったのを契機として、スペインの衰退に乗じて、17世紀に入ると、イギリスは非ヨーロッパ世界たるアジアと新大陸へ本格的に進出していく。その目的はマニュファクチュアの展開と生産力が増加し、国内の需要を上回ったため独占的な海外市場を開拓することにあった。

 

 アジアでは、エリザベス女王の治世末の1600年に、女王から勅許状を得て東インド会社が設立された。東インド会社は、ジャワ島のバンダムに最初の商館を設けて以来、ペルシア、インド、スマトラ島、モルッカ諸島、シャム、中国にも進出。1613年には平戸に商館を建設し、極東貿易を目指していた。しかし、オランダ東会社との競争に勝てず、1623年、モルッカ諸島のアンボイナ島でオランダと衝突し敗れた。これを契機に日本などから商館を撤収、インドに関心を向け、1639年マドラス、1661年ボンベイ、1690年カルカッタを獲得し、木綿製品、染料のインディゴ、硝石を取引した。

 

 他方、新大陸では、1607年、イギリスはロンドンからの植民者が北アメリカのヴァージニアに永続的植民地ジェイムズタウンを建設したのを皮切りに植民地建設を推進した。以後イギリス人による植民地の建設が本格的に展開するようになった。中でも、1620年、ピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)と呼ばれるピューリタン102名が新天地を求めてメイフラワー号で大西洋を横断、プリマスに上陸したことは、ニューイングランドの植民の基礎を固め、その速度を早めることになった。植民地建設に先立って、1606年には王立ヴァージニア会社が設立されていた。

 

 イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国が形成した植民地は、主として三類型で考えることができる。商業植民地型は、商館=要塞を建設して周辺地方と交易を行うもの。栽培植民地型は、本国人がプランテーションを経営し、先住民や黒人奴隷が労働力としてコーヒー、砂糖、たばこ、綿花、香辛料の栽培を行う栽培植民地型の植民地経営である。移住植民地は、本国人が植民者として移住し、自ら開発して新しい社会を建設していく型の植民地経営である。植民地経営は、個人企業では負担が大き過ぎて永続しないため、商人、貴族の出資する会社組織が行った。東インド会社をはじめ、エリザベス女王時代には多数の貿易勅許会社が設立された。一群の会社組織は、本国から遠く離れた地域における貿易活動を保証するために、しばしば国家にかわって外交交渉を行い、時には武力の行使すらをも辞さなかった。これらは、イギリスの海外進出の先兵としての役割を果たしたのである。

 

 17世紀後半からの100年間で、大陸の西の中合の小国にすぎなかったイギリスは、自他ともに認めるヨーロッパの大国としての地位を手に入れていった。政治的には、国王の専制権力が否定され、議会主権の体制が確立された名誉革命後、ヨーロッパ最大の政治力をもつフランスと互角に戦い、ルイ14世の勢力拡大を押しとどめたことが、ヨーロッパ諸国にイギリスの存在を印象づけた。これと並んでイギリスの国際的な地位向上を見せつけたのが、非ヨーロッパ世界に本格的な進出を開始し、その結果、海外貿易においてめざましい成長を遂げたことである。ルイ14世との戦争も、こうしたイギリスの経済力があってはじめて可能になったといってよい。

 

 イギリスの海外進出は、当時ヨーロッパ屈指の商業国であったオランダとの対立、抗争をひき起こした。アンボイナ事件はその典型であるが、この他にも北大西洋のニシン漁、北アメリカ植民地相互における対立等があった。このような折、1651年、ピューリタン革命の主導者クロムウェルが航海条令を出してオランダをイギリス貿易から排除したため、1652年から74年まで3回にわたりオランダと戦った。そして、その商権と海上権を打破してからは、イギリスはその海軍力を背景に、貿易上の販路拡大をめざして着々と勢力を拡げていったのである。

 

 イギリスにとって最も魅力ある新大陸植民地は、カリブ海に浮かぶ西インド諸島であった。すでに17世紀前半にイギリスはバルバドスを獲得し、ピューリタン革命中の1655年にはスペインからジャマイカを奪取していたが、17世紀後半以後は、これら西インド植民地で主に砂糖生産を目的とするプランテーション経営が急速に発展し始めた。

 

 他方、北アメリカでは17世紀後半以後、ニューイングランドを中心として、東海岸一帯に植民地群が形成された。南部のジョージアが植民地勅許状を付与されて、のちに独立戦争を起こすことになる13植民地が完成したのは、1732年のことである。アメリカの13植民地は、北部・中部では移住植民地として、南部では栽培植民地として発展した。

 

 西インド諸島の植民地経営の発展は、奴隷貿易の富をイギリスにもたらすことになった。プランテーション経営の労働力として需要が高まっていた黒人奴隷は、最も利潤をもたらす商品であった。植民地を経営する貿易勅許会社は、本国のマニュファクチュア製品をアフリカのギニア湾沿岸地方に運び、黒人奴隷と交換、彼らを西インド諸島に連れていき、砂糖、たばこ、綿花等を本国に持ち帰る三角貿易を実現した。植民地経営と貿易により獲得された富はイギリス本国経済における資本の蓄積の一部となり、資本主義の発展に寄与した。

 

 イギリスの新大陸での植民地経営が軌道にのると、北アメリカに本格的な進出を開始したフランスとの間で断続的な植民地争奪が繰り広げられることとなった。フランスはカナダからルイジアナまで広大な土地を支配し、イギリス植民地を北と西から包囲する形になっていたのである。

 

 1702年から13年にかけて、ヨーロッパで戦われたスペイン継承戦争と並行して、北アメリカではアン女王戦争と呼ばれる英仏間の武力衝突が起こった。この戦争でイギリスはカナダでインディアンと結んで抵抗するフランス軍を撃退し、アカディアを占領、1713年にヨーロッパで結ばれたユトレヒ条約により、ハドソン湾岸、セント・ローレンス湾岸のニューファンドランド島とアカディアを獲得した。しかし、両国の覇権争いに決着を着けたのは、1755年から63年にかけての7年戦争であった。この7年戦争では、首相大ピットがプロイセンに軍資金を提供して大陸戦を一任、主力を海戦と植民地戦に注いだ。新大陸とアジアでフランスと対峙したイギリスは有利に戦った。カナダでは、イギリス軍はルイスバーク、ナイアガラ等重要な要塞を陥落させ、1759年ケベック、翌年モントリオールを占領した。インドでは、イギリス側に東インド会社のクライブがでてベンガル土候との連合軍を指揮、1757年プラッシーの戦いでフランス軍を破りベンガル地方を制圧、61年にはボンディシエリも占領して、カナダ、インド両地方で完勝した。

 

 結局、1763年のパリ条約により、イギリスはカナダ、ミシシッピ河以東のルイジアナを、さらにスペインからはフロリダを獲得し、東海岸の13植民地とあわせて、北アメリカ東部に領域帝国と呼び得る支配地域をついに手中におさめた。イギリス領北アメリカ植民地の人口は、1760年には18世紀初頭の6倍に達し、この地域はイギリス産工業製品の最も有望な市場として急成長を遂げることになった。イギリスは、西インド諸島の二つの島も獲得した。パリ条約は、また、イギリスのインド支配にとっても重要なステップとなった。プラッシーの戦いでのイギリスの勝利を受けて、フランスがインドで土侯と政治同盟を結ばない保証をとりつけた。これを契機に、カルカッタを拠点とする東インド会社のベンガル支配は、単なる通商関係から本格的な植民地支配へと変質していくことになる。かくて、ここに熾烈をきわめた英仏の抗争はイギリスによる制覇で決着をみ、産業革命の展開と相俟って、19世紀の大英帝国の繁栄の基礎が確立された。

 

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参考文献

『世界歴史体型 イギリス史2-近世』今井宏編(山川出版社)

『概要西洋史』木村尚三郎・本間長世編(有斐閣選書)

 

平成13年に書いたレポート、評価はA

講師評は「バランスよくまとめられています。」でした。


【緊急ライブ】2024年!アメリカの崩壊はあるのか? (原口一博×マックス×石田和靖三者対談)

2023年09月13日 00時49分21秒 | 気になるニュースあれこれ

「大草原の小さな家」への旅_カリフォルニア州ロサンゼルス

「大草原の小さな家」への旅‗カリフォルニア州ロサンゼルス

 

 2013年9月、ローマ・インガルス・ワイルダーゆかりの地を訪ねた旅の最後にミズーリ州からユタ州ソルトレイクシティ経由でカリフォルニア州ロサンゼルスを訪れました。海辺は美しく、ハリウッドのアカデミー賞授賞式会場は思ったよりもお店がさみしく衰退感もありましたがものすごい熱気でした。(ご興味があればリンク先の旅日記をのぞいてください)。

 全く信じられないことですが、カリフォルニア州がバイデン政権の2年間ですっかり荒廃してしまったんだそうです。少し前から動画がツィーターに流れてきていますが、移民がどんどん入ってきたことによりハリウッドスターたちの手形の上はホームレスのがあふれかえり、最近万引きは罪に問われなくなった為店が荒れ放題。大型スーパーが撤退していくという話で、広いアメリカは週末に車でまとめて一週間分の買い物をするスタイル。食べる物が買えなくなり、この冬餓死する人が出てくるのではないかという懸念。

 民主党のロバート・ケネディ・ジュニアと共和党のトランプ元大統領がアメリカを立て直そうと必死になっていますが、バイデン政権から凄まじい妨害をうけているもよう。来年アメリカ大統領選挙は行われないのではないかという話も、マスコットでオバマ元大統領夫人(実はトランス女性?)を大統領に据えようという話も出てきているもよう。いろいろと知るにつけ、トランプ元大統領の悪いイメージを刷り込まれてきたのだとわかってきました。お人好しの日本人にはとても受け入れられない、信じ難いことが起こり続けているアメリカ。ワンワンと追随するばかりの岸田政権、世界はアメリカから離れつつあるようですが日本はもろともに崩壊していくのでしょうか。アメリカ大の行く末は日本の行く末。アメリカドルに価値がなくなれば日本はもう完全にアウト。

 

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