たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

宙組『FLY WITH ME』-ミュージックビデオ

2022年08月24日 17時24分36秒 | 宝塚
「宝塚歌劇では、空間全体を3Dデータ化するボリュメトリックビデオ技術を活用し、本年6月に東京ガーデンシアターで上演した、宙組公演『FLY WITH ME(フライ ウィズ ミー)』のメインテーマ曲「FLY WITH ME」(作詞:野口幸作/作曲:ALAN SHIRAHAMA)のミュージックビデオを全編フルCGで制作しました。(振付:Chihiro Ueno)

宝塚歌劇では初の試みとして、ボリュメトリックビデオ技術(※)を駆使して撮影した3D映像に、360度視点のダイナミックなカメラワークと、フルCGによる背景を組み合わせた、新感覚の映像作品づくりに取り組みました。デジタル空間と宝塚歌劇のパフォーマンスが融合した新たな映像体験をお楽しみください。

※ボリュメトリックビデオ技術とは、空間全体を撮影して3Dデータ化し、あらゆるアングルから見た3D映像として高画質に再現できる技術です。   

出演者
真風 涼帆、芹香 斗亜、紫藤 りゅう、鷹翔 千空、亜音 有星 」 

https://kageki.hankyu.co.jp/news/202208flywithme.html


 公演が終わっても楽しい『FLY WITH ME』、

 8月11日に配信された音源、購入しました。映像を26日にタカラヅカオンデマンドプレミアムプランで期間限定配信とのお知らせ。理解しきれていませんが、宙組男役の高身長、足長軍団、かっこいいこと間違いなし。サタデーナイトフィーバー味ある?振付。スカイステージ20周年記念番組に出演したり、こんな撮影もやっていたり、みなさま、コンサートの後も忙しかったですね。キキちゃんがいちばん背が低い?真風さんを中心に背の高さで対になっていてフォーメーションもばっちり。楽しみです。

 こんな時も果敢に新しい試みを続ける宝塚、気持ちがざわつきすぎますが、みなさまが無事にいてくれることを祈りながら応援するのみです。

(画像は劇団HPより)





通信教育レポート-教育学

2022年08月24日 13時08分29秒 | 日記
課題

1.教育についてのソクラテスの思想と実践。
2.哲学と教育学の関係。
以上の2問に対しまず教材の内容を紹介し、次に自分の意見を述べて下さい。

「1.教育についてのソクラテスの思想と実践-

 教育の課題を考える時、二つの問い方がある。「どう教育するか、という思想的態度、そこから生じたそもそも「教育とは何か」という科学的態度-この教育課題そのものを自覚的に事実として取り上げ、吟味の必要性を最初に唱えたのがソクラテスである。それは、「徳(善さ)は教えられるか」「徳自体とは何か」という形で初めて問われた。徳の問題が取り上げられるに至った路として、教養の問題があった。一般的教養の教育は、徳育が可能か否かという問題を含んでいる。ソクラテスの問題提起は、古代ギリシャの教育の主体たるソフィスト達に対する戦いから始まった。

 紀元前5世紀のギリシャ-アテナイは、民主主義体制が確立され、貴賤や職業を超えて高い教養と弁論の力をもつ者が大きな発言権を持った。そのためにより高い一般教育を求めた市民に、ソフィスト達が応じた。彼らは知識人を自称し、良き市民となるための徳を教え、「理性の時代」の推進の役目をする。それ以前の自然哲学中心と異なり、自然と人間とを対立させ、哲学の固有の領域を「人間」に見出した最初がソフィストたちであり、哲学の対象に関してはソクラテスの先駆者となる。が、その方法は全く対照的である。ソフィストは、真理よりも実用を、認識よりも説得を、対話よりも演説を好んだ。真理の基準になるのは理性や神ではなく、感覚であり人間である、万人に共通の絶対の真理など存在しない、真理は我々の主観に従うものである-とする。新しい自覚に目覚めつつ、実践においては時流に媚びた処世の知識を伝えようとする古い形態の教育を行った。語る内容が真理であることよりも、真理であると思わせるために美辞麗句を並べて長広告をふるう。

 ソフィストと対立するソクラテス-単なる我々の主観がそのまま真実ではない。主観は共同の研究を通じてやがて客観化されなければならない、ソフィスト達が教えると称する人間的な徳が、時空的な現実に制約されたものであり、普遍的な真の徳は現実の制約を超えて徳そのものの本質に迫らんとする探究の努力においてのみ得られる-ことを指摘した。先ず青年たちに現実を自覚させようとする。その方法は、ソフィストのように弁論という一方的な独語の形式で既成の真理をふりまわし、相手方を説得することに全てをかけるのではなく、対話の形式で相手方の議論を逐一吟味し、その中に含まれる矛盾や行き詰まりを自覚させ、より正しい道にそって自分で真理を発見させる。自ら「魂の助産術」と呼んだ。青年たちの心が分娩したものをあらゆる手段をもって吟味し、それが真実か偽りかを明らかにしていく方法である。ソクラテスの哲学の方法の出発点は「無知の知」の自覚である。自分はひとに教えるに足るほどの知識をもちあわせてはいない。自らも学ぶために、彼は青年達と語った。

 教育についてソクラテスは先ず「専門的技術的教育」と「一般的教養の教育」とを区別する。例えば彫刻家となる者が彫刻家に学ぶのは「専門的技術的教育」であり、自由な青年がそれらを学ぶのは「教養のため」である。ソフィストに学ぶのも教養に属する。そのうえで、ソフィストに対して疑問を投げかける。何ら専門の知識をもたずに徒らに教養の師と自称することは、知識の切り売りをする商人にすぎないのではないか、教養の知識は魂の養であり、自ら人間の徳と関係する、その徳に関係した知識を売り歩くにおいて、彼らは教養の師、徳の教師を任じているのではないか、もし彼らが「徳の教師」であり「善き人々を作る」ことに進んで責任を負うのなら、善き人々が作られるのは彼らの教えによってでなければならない、しかもその教えが知識の切り売り同然ならば、徳はそのような仕方で教えられるか、そのような仕方で教えられた徳を教養と呼べるのか-と。ソフィストのひとり、プロタゴラス-徳は生まれながらにあるのではなく、またひとりで生じてくるのでもなく、教えられるものであり得ようと心がける人にはそなわってくる。人々は幼少の子を教えさとし、教師の下では文字を習い詩を読みそこに含まれる教訓を学ばせ、次いで社会の中で法律を学ばせ従うよう強制する、教育は一生涯続けられているのである、また、教育の制約として素質とその学習とによって差異が生じるため、有徳の人の子が必ずしも有徳にはならない-理論的に説明するが、それは徳が教えられるのは「事実の問題」であることを出発点としている。徳が教えられるのか、教えられるものとしての徳はどのような構造をもっているかは、まだ問題として自覚されていない。事実としての「教育問題」をとりあげ、事実を吟味し遡って先ず問われた対象について「それは何か」と問わなければならない。そもそも「教えられる徳とは何か」ということを問題にしたのがソクラテスである。ソフィスたちが徳の教師を職業として自認するならば、彼らは先ずその教える徳の善悪、あるいはさらに遡ってその徳の本質を知らなければならない、教師にとって真に必要なのは豊富な知識と巧みな表現とのみではなく、むしろ巧みな表現の陰に言葉の虚偽を見破り、批判的精神にまで人々を導き、真理を愛する開かれた魂を形成し得る能力でなければならない、また、生徒にとって真に必要なのは素質と学習のみではなく、先ず考えることによって真の権威を獲得することの練習でなければならない。ソクラテスの教師としてのあり方は、教師としての公示を掲げることなく、むしろ徳の探究者だった。事実を自覚させ、問答を通じて徳の認識へと導いていく。徳を考えしめ徳を捕へしめることが教養の教育ならば、それは先ず私的な「交わり」に基づかなければならない、徳育は本来「公示された職業」の下になさるべきものではなく、より本質的には友愛の中に生ずるのである。これが教師ソクラテスの自覚であったにちがいない。

 ソクラテスとソフィストの教師としてのあり方の相違は、現代に至っても変わることのない教える者としてのあり方の類型的な違いかもしれない。徳を教養の知識としてとらえたことについては、十分に議論の余地があるかと思うけれど、自らもまた学ぶ者として、押しつけるのではなく教えられた者たちと同じ目線の高さから考えようとした、考えることへ導いていこうとしたソクラテスの姿勢は、教師としての理想像といえるだろう。特定の場所と時間とを設定して、事柄の説明をし知識として与え、受ける側はそれを吸収していくだけが教育ではない。それよりも、生活の中におけるひとつひとつの出来事の底に流れる、人として忘れてはならないものを見い出してゆく、自らのあり方を、考える力を身につけていくことかもしれない。青年たちがソクラテスから学んだのは、その姿勢そのものではなかったか、教える者としてある立場の者もまた未熟であり、人としてより良く生きんがための真のものを求めていくことを忘れてはならない。教える者と教えられる者との立場の違いを超えてあるのは、より良くいきようとする心であり、互いを結ぶのは理解したいという心であり愛ではないか、学校という場を離れて10年が過ぎた今振り返ってみて思う。」


「2.哲学と教育学の関係-

 教育を哲学することが教育である。が、それは必ずしも「教育哲学」であるとは考えられない。教育哲学は、教育と哲学との何らかの結合である。両者は、その本質に従って関係すべくして関係しなければならない。

 先ず哲学とは何か。哲学は、本来、フィロソフィアー知識への自然の親しみ、ということである。この意味での哲学者と呼べる人々が現れたのは17世紀初めだった。ガリレオ、パスカル、ニュートン等、人間理性の開放を試みた人々によって、哲学の領域において開かれた諸問題は、その後素晴らしい勢いで、その特殊な領域を展開し、一人の人間がこれを自分の哲学の中に領することが極めて困難になる。その母胎から、特殊な部門としての力学・天文学・物理学などが脱落していく。ガリレオ等は、すぐれた哲学者であると同時にすぐれた科学者であった。が時代が下るにつれて科学者が科学と関係する領域がせまくなってきた。哲学がふみこんだあらゆる領域、あらゆる問題は、明瞭な解答を与えられるや否や、すでに諸科学の名の下に組織立てられた哲学から独立し、残された人々が十分にこたえられない未解決の問題のみが、哲学の領域となり、それらに関する統括的な名称となった。しかも、依然として科学を含んでいなければならない。科学を一応理解していなければ自己の問題を取り扱えない。が、最近数十年間に科学は目ざましい発達をとげ、哲学が理解することはできない。現代の科学は、科学の解決し得ない問題を取り扱いつつ、科学と直接関係のない人生の諸問題の解決に限られてくる。包括的な意味ではなく、諸々のそれぞれの対象領域において、独自の愛智を続けていこうとしている。しかもなお、諸対象領域において研究がまだ決定的な結論に到達していない特殊な領域を自己の対象として愛智の営みを続けようとしている。

 教育は、我々にとって極めて親しい経験を表わすものとして、ひとつの学の対象領域を示す。教育哲学は、教育現象を自己の対象として、これに関係する知識を愛し、その叡智の営みを続けるところに成立する、教育の哲学であり、しかも教育を哲学することである。あるいは、その成果としての知識の体系である。従って、教育現象を対象として、その現象が何であるかに答えようとうる教育学と殆ど区別できない、教育学もまた教育への愛智、即ち教育の哲学を意味する。」

参考文献
・『ギリシアの古典』藤井義夫(中公新書)
・『教育学入門』村井実(講談社学術文庫)


評価はB、講師評は残念ながら達筆すぎて判読できず。