たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

コロナ死水増し

2022年08月26日 17時54分29秒 | 気になるニュースあれこれ
2022年8月25日熊本朝日放送、

「新型コロナ 10歳未満の男児死亡 熊本県初-

 24日、熊本県内で10歳未満から90代までの男女5人の死亡が確認されました。10歳未満が亡くなるのは熊本県内では初めてです。

 亡くなったのは男児で、搬送された病院で20日に死亡が確認されました。熊本県によると直接の死因は新型コロナではありませんでしたが、死亡後に行われたPCR検査で陽性が確認されたということです。」

https://news.yahoo.co.jp/articles/c4e9eb6901c7ee2d16213e3a3931f9b85852ca0e


2022年8月25日毎日新聞、

「コロナ感染 基礎疾患ない10代女性が死亡 大阪-

 大阪府は25日、新型コロナウイルスに感染した10代女性が21日に死亡したと発表した。女性に基礎疾患はない。府は詳細を明らかにしていないが、亡くなった場所は自宅や宿泊療養施設ではないとしている。

 厚生労働省によると、コロナ死者の大半は高齢者。10代の死者は23日までに全国で11人確認されている。10代未満は15人。」

https://news.yahoo.co.jp/articles/288656cb3acb77935bf64cc364433323ef6be4b3




2022年8月25日CBCテレビ、

「ワクチン接種数時間後に急死 「息子は浴槽に沈んでいた…」国の結論はまたも“評価不能”-

新型コロナワクチンを接種したその日に息を引き取った13歳の少年。少年の搬送先の病院はワクチンの副反応と関係があるのではないかという報告書を国に提出しました。しかし、厚生労働省が出した結論は「評価不能」でした。少年の両親が今、国に求めることとは?」

https://news.yahoo.co.jp/articles/1ed7d8fa99e0f65139dd3d9a124d04d7e1b36a08


 10代が亡くなり死後の検査で陽性判定となったら見出しにコロナと煽って大騒ぎ、コロナ?コロナではない?わからなくても10代が亡くなったらコロナ感染と煽って大騒ぎ、死者への冒涜も甚だしいコロナ死水増し。一方、昨年10月末鎌倉市の男子中学生がワクチン接種当日お風呂で亡くなっていたことは、ようやくCBCテレビが取材し、ヤフーニュースにもあがってきました。鎌倉市の長嶋議員が12月に市議会で保護者の声を訴えていますがやっとです。コロナ死は煽り報道して、ワクチン接種後の死亡は取り上げない報道、大本営の御用達。表に出てくるのは御用達の専門家?や医師ばかり。

 トチ狂った日本は泥の船、音もなく沈みゆこうとしています。希望のある未来はありません、絶望的だと思います。わたしはもう死んでいくだけのおばあさんなのでいいですが子どもたちはどうなってしまうのでしょうか。


お風呂で亡くなった男子中学生、

https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/4af770e1d17734d80a9027bf354e131c



 7月末国交省よりバス協会に対して、積極的に3回目を接種するよう通達が出されているとか。トラックやバスの運転手が突然意識不明になる事故が増えているというのに。路線バスに乗るのも命がけのロシアンルーレットと毎回思いながら利用しています。これが取り越し苦労であれば幸いと思います。

『ラ・プラタの博物学者』第1章より

2022年08月26日 00時48分23秒 | 本あれこれ






「もし、国立画廊に蒐集(しゅうしゅう)された名画や、大英博物館の大理石像や、王室図書館におさめられている古代の印刷物や中世の彩飾に、とつぜん破壊の手が下されたとしたら、いかなる悲鳴が全世界に聞かれることであろう!しかも、これらは人間の手と頭脳が作りだしたものにすぎない。それは、やがては朽ちはてる物質に個々の天才をしるしづけたものであって、これを不朽といっても、それは死んだガがのこした絹のまゆを不朽というのと同じなのである。なぜなら、それらは、それを作った芸術家の手と頭脳が塵と化し去ってもなお輝き存在しているからだ。そして、人類には無限の未来があるから、いつか再びこれらと同じようなものを作りすかもしれないし、もし進化ということになんらかの真理があるとすれば、これらのものよりもさらにすぐれたものを作りだすかもしれない。これに反して、哺乳類と鳥類という二つの高級な脊髄動物に属する生物は、自然の最も完成した作品であって、そのどの一種をとってみても、それが教えること、もし存在を許されればこの後も教えつづけるであろうことを考えれば、人類にとって、それは世界の蔵するすべての大理石の彫刻とすべての彩られたカンバスよりも、はかりしれないほど大きな価値を持っているのだ。

もっとも、芸術には献身しても、芸術以上に偉大なものがあることを知らない多くの人々は、このようなことをいうわたしを俗物ときめてしまうだろうが。それ故に、わたしたちは、なにをおいても、その大きさとか、その美しさとか、そのめずらしさとかのために、それから、それらを最も多く殺した者に与えられるあのいまわしい虚偽の名誉のために、第一に殺戮の目標にえらばれた、自然の傑作ともいうべき動物たちを保護し神聖視しなければならない。昔、これらは最も生命力に燃えている動物だったので、彼らとともにこの地上にいた他の動物が死に絶えた時、彼らだけはより永存価値があるものとしてのこされた。彼らが時の海をただよってわたしたちのところに流れついた不滅の花ともいうべく、彼らのめずらしさと美しさとは、わたしたちの想像に、人間が未だ存在しなかった、はるか遠い昔の世界の夢と絵をもたらすものだ。そして、彼らが滅び去るときは、自然界の喜びのいくぶんかがけずりとられ、太陽の輝きはそのいくぶんかを失ってしまう。

さらに彼らを失うことは、わたしたちおよびわたしたちの時代のみに影響するものではない。南米のみではなく地球上いたるところで現在殺しつくされつつある動物の種は、わたしたちの知るかぎりでは、未だ退化の手が及ばないものたちである。彼らは一連のくさりの一環であり、思惟をこえた遠い昔に根を持つ生物の樹に生えた枝であって、わたしたちがそれを滅しさえしなければ、彼らは永久に繁茂をつづけ、過去と同じく遠い未来までのび、今よりさらに高級なさらに美しい花を開き、わたしたちの無数の世代の子孫を喜ばすだろう。しかし、わたしたちはこういうことを少しも考えない。わたしたちは生物を殺す欲望をほしいままにせねば気がすまない。たとえ、そうすることによって、次の言葉を使った詩人の意図する意味よりいっそう真実で広く、そして無限に悲しい意味で「詩の偉大なる作品を滅している」のであっても。このおそるべき狩猟の熱がさめきったとき、そして、比較的巨大な動物がもはや一つもいなくなったとき、わたしたちは、はじめて、自分たちが終身保有権のみを有しているにすぎないわたしたちの世襲物に、現在わたしたちが与えつつある損害の意味が正しく理解されるだろう。

絶滅した動物に関するわたしたちの研究所と、どこか幸運な場所の博物館におそらく、五、六世紀くらいは保存されるかもしれない、わずかの崩壊してゆく骨と色あせた羽毛とで、わたしたちの子孫が満足するであろうとは、想像することも望むこともできない。それどころか、このようにわびしい記念物は、子孫たちに、滅びた動物たちを思いださせるよすがとなるだけだろう。そして、もし彼らがわたしたちを記憶するとすれば、それはただわたしたちとわたしたちの時代とを憎む気持ちからだけだろうーこの文明開化せる科学的、博愛的時代を。それはその標語として、次の言葉を持つべきである。「われらをしてすべの気高く美しきものを殺さしめよ。われら明日死すべければなり」。」

(ハドソン著・岩田良吉訳『ラ・プラタの博物学者』岩波文庫、1934年2月10日第1刷、1978年12月10日第12刷発行、35-38頁より)