「アンにとって想像力とは、人生を豊かにしてくれるものです。しかしその想像力が、ときには危険なものになる場合もあります。つまり、「今ここ」の目の前にある現実を、一瞬のうちに忘れ去らせてしまう危険性もあるからです。
それは、マシューとアンを乗せた馬車が道を曲がって、ニューブリッジの人たちが並木道と呼んでいる道にさしかかったときに起こります。アンは、マシューとのそれまでの会話を突然断ち切って、全然違う言葉を発します。
「わたしもよ。どうしても決められないの。でも、本当はどっちでもいいことなんだけど。どうせ、そのどれにもなれっこないんだから。天使のようにいい人になれないことだけは、絶対確かよ。スペンサーのおばさんもいってたけど・・・ああ、カスバートさん! カスバートさん! カスバートさん!」
マシューの名前を三回言って、それから急にアンは口をきかなくなります。馬車が道を曲がって並木道に入り、その並木道に沿ってずらりと並んで咲いている、リンゴの花の美しさに心を打たれてしまったからです。ここでは、アン・シャーリーにとって現実というものが、時には想像力によって乗っ取られてしまうというケースが描かれています。
アンにとっては、他の誰かと会話をしているのは、まだしも現実との接点があるということなのです。彼女が本当に自分の想像の世界に入ってしまうと、会話すらしなくなる。というよりは、現実的なことには一切、関心を持たなくなってしまう。
たとえばあるときアンは、ケーキを作りながら、ダイアナが天然痘にかかって死んでしまうという空想をしていました。そして、空想の世界へあまりにも入り込んでしまったため、とうとうケーキの材料を混ぜながら、泣きだしてしまった。そして、粉を入れるのを忘れてしまい、ケーキは目も当てられないような失敗作となりました。
ドストエフスキーの『地下室の手記』という作品があります。主人公は、極端な自意識過剰から20年も地下に閉じこもって妄想を続ける40歳の男。理性による社会改造の可能性を否定し、非合理こそ人間の本質だと訴え続けます。この作品では、自分を取り巻く状況が貧しい人ほど想像力が暴走しやすい、という主人公の姿が描かれています。
そしてさらにもう一歩踏み込んでこの物語を眺めてみると、そこには「想像力」に潜むもう一つの危険性も見え隠れします。つまり、「想像力」には、社会の秩序をも揺るがしうる力がある、という危険性です。
マリラは一貫してアンの想像力の行き過ぎをいさめますが、そこには「想像を始めると現実がおろそかになる」といった日常レベルでの支障以上に、何か自分達の生活の秩序を、アンの想像力は揺るがしてしまうのではないか、といった漠然とした不安感があったはずです。ここで言う秩序とは、「キリスト教的世界観」を基盤として成り立っている、当時の西欧社会においての「秩序」という意味です。
僕は『赤毛のアン』を読み解く上で、この「キリスト教的世界観」を無視しては何事も理解しえないと思っています。それはひょっとしたら、モンゴメリーが牧師の妻であったということと関係してくるのかもしれません。しかしそれ以上に、当時のカナダ社会の成り立ちという観点から見ても、キリスト教の思想を抜きにしては、この小説の本当の姿は見えてこない。そう思います。」
それは、マシューとアンを乗せた馬車が道を曲がって、ニューブリッジの人たちが並木道と呼んでいる道にさしかかったときに起こります。アンは、マシューとのそれまでの会話を突然断ち切って、全然違う言葉を発します。
「わたしもよ。どうしても決められないの。でも、本当はどっちでもいいことなんだけど。どうせ、そのどれにもなれっこないんだから。天使のようにいい人になれないことだけは、絶対確かよ。スペンサーのおばさんもいってたけど・・・ああ、カスバートさん! カスバートさん! カスバートさん!」
マシューの名前を三回言って、それから急にアンは口をきかなくなります。馬車が道を曲がって並木道に入り、その並木道に沿ってずらりと並んで咲いている、リンゴの花の美しさに心を打たれてしまったからです。ここでは、アン・シャーリーにとって現実というものが、時には想像力によって乗っ取られてしまうというケースが描かれています。
アンにとっては、他の誰かと会話をしているのは、まだしも現実との接点があるということなのです。彼女が本当に自分の想像の世界に入ってしまうと、会話すらしなくなる。というよりは、現実的なことには一切、関心を持たなくなってしまう。
たとえばあるときアンは、ケーキを作りながら、ダイアナが天然痘にかかって死んでしまうという空想をしていました。そして、空想の世界へあまりにも入り込んでしまったため、とうとうケーキの材料を混ぜながら、泣きだしてしまった。そして、粉を入れるのを忘れてしまい、ケーキは目も当てられないような失敗作となりました。
ドストエフスキーの『地下室の手記』という作品があります。主人公は、極端な自意識過剰から20年も地下に閉じこもって妄想を続ける40歳の男。理性による社会改造の可能性を否定し、非合理こそ人間の本質だと訴え続けます。この作品では、自分を取り巻く状況が貧しい人ほど想像力が暴走しやすい、という主人公の姿が描かれています。
そしてさらにもう一歩踏み込んでこの物語を眺めてみると、そこには「想像力」に潜むもう一つの危険性も見え隠れします。つまり、「想像力」には、社会の秩序をも揺るがしうる力がある、という危険性です。
マリラは一貫してアンの想像力の行き過ぎをいさめますが、そこには「想像を始めると現実がおろそかになる」といった日常レベルでの支障以上に、何か自分達の生活の秩序を、アンの想像力は揺るがしてしまうのではないか、といった漠然とした不安感があったはずです。ここで言う秩序とは、「キリスト教的世界観」を基盤として成り立っている、当時の西欧社会においての「秩序」という意味です。
僕は『赤毛のアン』を読み解く上で、この「キリスト教的世界観」を無視しては何事も理解しえないと思っています。それはひょっとしたら、モンゴメリーが牧師の妻であったということと関係してくるのかもしれません。しかしそれ以上に、当時のカナダ社会の成り立ちという観点から見ても、キリスト教の思想を抜きにしては、この小説の本当の姿は見えてこない。そう思います。」