吉原光夫
@mitsuoYoshihara
そして変わらないと思うけど、こうゆう時こそ、バラエティや、音楽の番組を中止しないで流してください。。
地震の報道は、被災地外に知らせるものだけでなく、被災地の人達の心を考えたものに・・・
***************
『レ・ミゼラブル』でバルジャンを演じた吉原さんのツィッターのあったかい言葉。東日本大震災の後、自分にできることは、やるべきことはボランティアに行くことではなく舞台の上で精一杯バルジャンを生き抜くことだとわかったと、2013年帝国劇場凱旋公演の大千秋楽で話されたことはこのブログに書いています。
ヤフーのニュースを随時チェックしていますが余震が阪神淡路大震災級というのは東日本大震災の時もそうでした。震源地から離れた都心でさえ大きな揺れが続く極度の不安と恐怖の中、前職のどうしようもないような会社で仕事を続けていました。原発事故が重なったのでどうなっていくのかとネットのニュースを画面を立ちあげながらパソコンに向かっていました。その緊張感は半端なものではありませんでした。花粉が飛んでいたはずですがそれどころではありませんでした。花粉症で悩めるなんてある意味幸せなことだとわかりました。人ごみの通勤電車がこわくって仕方なかったです。住まいから都心に毎日出ていかなければならないのが不安で仕方なかったです。
普通であることは当たり前のようでいて、ほんとうにかけがえのないこと。むずかしいこと。日本は、世界は、これからどうなっていくのでしょうね。地球は私たちになにか警告を発しているのでしょうか。謙虚に、生かされているという想いを大切に日々を過ごしていくことが大切だと思います。今の私の立場で職務を行っている人間に対して、日頃ため込んでいるストレスをここぞとばかりに発散して、「男性の」(ここ大事です)役職者に頭を下げさせることで嘘っぱちの優越感にひたるオジサンに今週なんどか遭遇してしまいました。なにも言えないとわかっている立場の人間に向かって上からモノを言うなんてサイテー。思い出すと吐き気しそうです。世の中にはこんなにひどい類の人間がいるのだと労働紛争で知りましたが、いやはや傲慢な人間はいるもんですね。生かされているという謙虚さを忘れて奢った人間にはいつかなにかしっぺがえしがやってくる。私はそう思っています。
「東日本巨大災害のテレビをみつつ
2011年3月11日-3月28日
かつて、神戸を出て大阪にくるともうふつうの日常が営まれているのを不思議な眼でみたことを思い出す。九州や東京に行くと、震災地では当たり前だった服装が自分でも場違いなものに思われるようになる。皇后陛下が皇居の水仙を持って見舞いに来られたように、瓦礫に合う色は黄色しかなかった。私も黄色のマフラーをしていた。その年の園芸学会に呼ばれてゆくと、「今年はなぜかヒマワリがよく売れる不思議な年です」とのことであった。
災害発生の数日前の新聞を読み直すと、何とやくたいのない記事ばかり並んでいることよ。相撲の八百長から、隣の朝鮮人のおばさんに中学生の時から可愛がってもらって、おこづかいを貰ったことで外相の首が飛ぶとか、そういった記事である。この津波が押し流してほしいのは多数の愚劣事である。
政治家も久しぶりに現実と相渉る日々となって、鍛えられるであろう。経験を積まれる機会である。戦争でなく、天災が政治家の現実感覚、責任感覚を育てるならば、それが最大の遺産であろう。世界的に政治家が不足しているが、日本の枯渇ぶりはひどかった。
原子炉が担う電力の大きさにあらためて驚く。しかし、原子炉事故は私の同心円にしっくり収まっていない。収まる時がくるのかどうか。私がいま思い出すのはチェルノブイリの事故で、悲しいのは放射能には老人のほうが強いことで、若者が死んでゆくのが老人にはつらいという記事である。コンクリートの棺桶を作るためにソ連は兵士と市民の決死隊を使っていたようだが、日本ではそういうわけにゆかない。
何が必要かを想像してみると、まず「よくやった」という気持ちを実感できる状況を作る。そして、ぜいたくな食べ物である。これは免疫力を向上させる。生理的に、そして心理的にも、である。
神戸では、私への義援金を使って、神戸牛と明石鍋とをとりよせた。また客が来なくなった温泉に話して半額で交代で泊まれるようにした。
緊張はじわーっとぬいてゆくのがよい。その点で大酒はどうかと思われる。ベトナム戦争からの帰還兵にアルコール症が多かったと聞く。
救出された人が直後に死亡すること。これは、大西洋を船で往来していた時代に、フランス領の港ルアーブルの医師が観察していた。せっかく海難から救助された人が、港の病院で亡くなるのである。この医師は海のど真ん中にボートを下ろしてもらって海難を疑似体験している。乗ったきた船が見えなくなるということが大きな危険である。神戸の時も、夜十時になればタクシーが動く。それに乗って自宅に向かう途中、突然、脈が弱くなって、これはいけないと緊張しなおしたことがあった。」
(中井久夫『災害がほんとうに襲った時_阪神淡路大震災50日間の記録』2011年4月11日みすず書房発行より抜粋して引用しました。)
@mitsuoYoshihara
そして変わらないと思うけど、こうゆう時こそ、バラエティや、音楽の番組を中止しないで流してください。。
地震の報道は、被災地外に知らせるものだけでなく、被災地の人達の心を考えたものに・・・
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『レ・ミゼラブル』でバルジャンを演じた吉原さんのツィッターのあったかい言葉。東日本大震災の後、自分にできることは、やるべきことはボランティアに行くことではなく舞台の上で精一杯バルジャンを生き抜くことだとわかったと、2013年帝国劇場凱旋公演の大千秋楽で話されたことはこのブログに書いています。
ヤフーのニュースを随時チェックしていますが余震が阪神淡路大震災級というのは東日本大震災の時もそうでした。震源地から離れた都心でさえ大きな揺れが続く極度の不安と恐怖の中、前職のどうしようもないような会社で仕事を続けていました。原発事故が重なったのでどうなっていくのかとネットのニュースを画面を立ちあげながらパソコンに向かっていました。その緊張感は半端なものではありませんでした。花粉が飛んでいたはずですがそれどころではありませんでした。花粉症で悩めるなんてある意味幸せなことだとわかりました。人ごみの通勤電車がこわくって仕方なかったです。住まいから都心に毎日出ていかなければならないのが不安で仕方なかったです。
普通であることは当たり前のようでいて、ほんとうにかけがえのないこと。むずかしいこと。日本は、世界は、これからどうなっていくのでしょうね。地球は私たちになにか警告を発しているのでしょうか。謙虚に、生かされているという想いを大切に日々を過ごしていくことが大切だと思います。今の私の立場で職務を行っている人間に対して、日頃ため込んでいるストレスをここぞとばかりに発散して、「男性の」(ここ大事です)役職者に頭を下げさせることで嘘っぱちの優越感にひたるオジサンに今週なんどか遭遇してしまいました。なにも言えないとわかっている立場の人間に向かって上からモノを言うなんてサイテー。思い出すと吐き気しそうです。世の中にはこんなにひどい類の人間がいるのだと労働紛争で知りましたが、いやはや傲慢な人間はいるもんですね。生かされているという謙虚さを忘れて奢った人間にはいつかなにかしっぺがえしがやってくる。私はそう思っています。
「東日本巨大災害のテレビをみつつ
2011年3月11日-3月28日
かつて、神戸を出て大阪にくるともうふつうの日常が営まれているのを不思議な眼でみたことを思い出す。九州や東京に行くと、震災地では当たり前だった服装が自分でも場違いなものに思われるようになる。皇后陛下が皇居の水仙を持って見舞いに来られたように、瓦礫に合う色は黄色しかなかった。私も黄色のマフラーをしていた。その年の園芸学会に呼ばれてゆくと、「今年はなぜかヒマワリがよく売れる不思議な年です」とのことであった。
災害発生の数日前の新聞を読み直すと、何とやくたいのない記事ばかり並んでいることよ。相撲の八百長から、隣の朝鮮人のおばさんに中学生の時から可愛がってもらって、おこづかいを貰ったことで外相の首が飛ぶとか、そういった記事である。この津波が押し流してほしいのは多数の愚劣事である。
政治家も久しぶりに現実と相渉る日々となって、鍛えられるであろう。経験を積まれる機会である。戦争でなく、天災が政治家の現実感覚、責任感覚を育てるならば、それが最大の遺産であろう。世界的に政治家が不足しているが、日本の枯渇ぶりはひどかった。
原子炉が担う電力の大きさにあらためて驚く。しかし、原子炉事故は私の同心円にしっくり収まっていない。収まる時がくるのかどうか。私がいま思い出すのはチェルノブイリの事故で、悲しいのは放射能には老人のほうが強いことで、若者が死んでゆくのが老人にはつらいという記事である。コンクリートの棺桶を作るためにソ連は兵士と市民の決死隊を使っていたようだが、日本ではそういうわけにゆかない。
何が必要かを想像してみると、まず「よくやった」という気持ちを実感できる状況を作る。そして、ぜいたくな食べ物である。これは免疫力を向上させる。生理的に、そして心理的にも、である。
神戸では、私への義援金を使って、神戸牛と明石鍋とをとりよせた。また客が来なくなった温泉に話して半額で交代で泊まれるようにした。
緊張はじわーっとぬいてゆくのがよい。その点で大酒はどうかと思われる。ベトナム戦争からの帰還兵にアルコール症が多かったと聞く。
救出された人が直後に死亡すること。これは、大西洋を船で往来していた時代に、フランス領の港ルアーブルの医師が観察していた。せっかく海難から救助された人が、港の病院で亡くなるのである。この医師は海のど真ん中にボートを下ろしてもらって海難を疑似体験している。乗ったきた船が見えなくなるということが大きな危険である。神戸の時も、夜十時になればタクシーが動く。それに乗って自宅に向かう途中、突然、脈が弱くなって、これはいけないと緊張しなおしたことがあった。」
(中井久夫『災害がほんとうに襲った時_阪神淡路大震災50日間の記録』2011年4月11日みすず書房発行より抜粋して引用しました。)
災害がほんとうに襲った時――阪神淡路大震災50日間の記録 | |
中井 久夫 | |
みすず書房 |