たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

久しぶりの帝国劇場

2016年04月12日 23時06分42秒 | ミュージカル・舞台・映画
 『1789バスティユーの恋人たち』夜の部観劇しました。まずはとりあえず普通に社会に戻った私でまたここに来ることができてほんとによかったと思いました。舞台はフレンチ・ロック・ミュージカル。東宝初の生オケなしの舞台。開演前にオケの音が全くきこえてこない空間は最初すごく不思議な感じでした。

 タクトなしで舞台は開幕。デジタルが駆使された舞台でした。群舞のダンスシーンが多くて驚きました。プログラムをみるとアンサンブルには、アクロバティックなダンスの名手がずらり。彼らの従えて踊るプリンシバルキャストたちはずいぶん練習したんでしょうね。小池君とか古川さんとか上原さんとか、ソニンちゃんとかこんなに踊れるって知らなかったです。

 革命派はイケメンがずらり。古川さんロベスピエールの美しいこと。フェルゼンも美しかったです。王党派の適役たちはベテランたちが絶妙な演技の安定感で舞台を支えていました。ロナンの妹のソニンちゃんも存在感ばっちり。芯が強く気持ちがすごくきれいな、王宮に遣えるオランプはベルばらのロザリーを思わせました。アントワネットの最後の、飾を全部脱ぎ棄てた質素な衣装もベルばらっぽかったかな。その時の花ちゃんが一番きれいでした。ベルサイユに群衆が押し寄せたとき、王妃としてバルコニーに立つシーンがほしかったかな。彼女がもう少し早く自分の役割に目ざめることができていたら史実が違ったかもと思えたりしました。ベルサイユ宮殿に飾られていたアントワネットの彫像は美しかったです。ほんとにきれいな人だったんだと思いました。母のマリアテレジアは自分恋愛結婚だったのに、子どもは全部政争の具にしてしまったんですよね。書きたいことは尽きませんが明日ちゃんと仕事できるか心配でここまでにしないといけないです。

 プログラムに花ちゃんは宝塚を退団後5年間舞台から遠ざかっていた時もう二度と舞台に戻ることはないと考えていたら今の事務所の人たちと出会ったとありました。今帝国劇場の真ん中に立っている人にもそんな沈黙の時があったのだと励まされます。出会いによって人生は変わってきます。思いがけないことがあるかもしれないしれません。希望を捨てないでいたいです。

写真は東宝の公式ツィッターから転用しています。


『就職・就社の構造』より_競争と定着のアンビバレンス_中沢孝夫(3)

2016年04月12日 13時47分49秒 | 本あれこれ
 とくに中小企業の交替制勤務の現業職などは最初の職場としては避けられる。ファーストフードやファミリーレストラン、あるいは全国展開のコーヒー店なども交替制勤務はあるし、裏方の仕事はけっこう肉体的にもきついのだが、とりあえずものづくりの現場よりもそちらが好まれる不思議さがある。
(略)
もちろんジャスト・イン・タイムに象徴される行きすぎた省力化。モノ離れを招く製品の早期な陳腐化。銀行、損保、商社などの相対的な賃金の高さ、などが全体としての「製造業離れ」のムードをつくってきたこともたしかだろう。
 
 しかし92、93年の不況はそうした空気に若干の揺り戻しをかけている。どこの企業でも買い手市場の風潮のなかで、仕事(職場)の厳しさを学生に訴えるからである。

 それともうひとつは、いったんはセールスをしたりファーストフードやコンビニに勤めたりと、いくつもの職場を経験したあと、生活上の事情と働くことによって体験するモノづくりの充実感から、製造業の現場を生涯の職場として定着する若者ももちろんいる。

 たとえば、つくば市(茨城県)と釜石市(宮城県)に工場をもつ電炉メーカーの伊藤製鉄所などの話によると、「高卒の場合、三直三交替職場というと大手以外は新卒を採用するのは難しいですね。しかし20代で早く結婚し子供をもった若者などが、住むところやある程度まとまった賃金の必要性から応募してきて、ほとんどは定着する」という。・

 製鉄所の現場は炉前、圧延、といった係別に5-7人で組仕事をすることになるが、そこで仲間ができ、半年ぐらいすると、”玉掛け”などの現場の技能を身につけ、労働のもつ達成感により徐々に職場になじんでいくという。「新規採用の上限は34歳から35歳」まで可能だとのことだが、モノづくりの現場は、競争関係よりも協力関係が強いため人間的な軋轢(あつれき)が少ない。それはホワイトカラーの職場との大きな違いである。伊藤製鉄所の生産職は230人だが、親子で働いている例が10組あるという。ストレスの多い職場なら親が子供に薦めることはあまりない。


 ダイエーとHONDAのふたつの企業名を上げたのは理由がある。両社ともに日本の高度成長とともに育った企業だからである。ダイエーが13人の陣営でスタートしたのは1957年であり、HONDAが本格的に乗用車生産に乗り出したのは60年代になってからである。
両社が活動を開始した頃の日本は、繊維、造船、製紙、鉄鋼などが花形産業だった。そうした

 50年代60年代に”名門”だった産業の重役に有名大学の出身者が多いのはそのせいである。しかし急成長した企業の出身校はバラバラである。それが当時のランキングだったのである。だが組織には常に「規模のもつ論理」があって、マネージメントの共通性は生まれる。絶えずチャレンジしているように見える両社にあっても、採用の共通性や人材開発の共通性は生じて
くるのである。

 20年後30年後の「ダイエー」や「HONDA」が、現在どこで創業し、操業を開始しているかは誰にもわからないが、市場というものは、いつも出会いのもつ成功と失敗の危険に満ちている。人生は自分の力だけではどうにもならないところがあるし、しかし自分で行動しなければどうにもならないところもある。もしサクセス・ストーリーを望むならば「会社案内」がこないことのほうが幸運かもしれない。未知へのチャレンジを強いられるからだ。

 もちろんチャレンジばかりが大切なわけではない。豊かさやサクセス・ストーリーを目指すことも人生だが、ラインの傍で働きつづけたり、郵便を配達したり、電気炉の中で鉄が熔解する火を見つづけたり、という一見”地味”な仕事を選ぶと、転勤が少ないので、地域に根ざした暮らしができたりするのだ。そして当り前のことだが花形産業の職場でも圧倒的に地味な仕事が多いのだ。親と子がおなじ労働に従事し、同じ地域に住むことの安定感は、選ぶに値するひとつの人生のストーリーである。

 親が子に向って、「自分のように生きろ」というのか、それとも「自分を超えて行け」というのかは難しい選択だが、いつの時代でも子供が親を超えて豊かになれるとは限らないのである。またどんな職場も「競争」と「定着」のアンビバレンツななかにある。

 現在の親が悩みながら高度成長の日々を過ごし職場風土をつくったように、子供もまた自分の幸運をかみしめたり、あるいは不運を悩みながら職場生活を送る以外にないのかも知れない。

(『就職・就社の構造』岩波書店、1994年3月25日発行、60-64頁より引用)。


就職・就社の構造 (日本会社原論 4)
クリエーター情報なし
岩波書店