「主要企業の集中回答日を16日迎えた2016春闘は、景気の先行き不安が濃い影を落とした。3年連続のベースアップを実現した企業もあるが、それも小幅。賃上げの恩恵に浴することのできない中小企業で働く社員や、非正規労働者からは「厳しい」「賃上げを訴えても・・・」と冷めた声も漏れた。
(略)
関東地方に住む女性は、派遣社員として10年以上働いてきた。賃上げを求めたこともあったが、派遣元企業の担当者は「時給を1円上げるだけでも難しい。
派遣先の労組が交渉で休日増を勝ち取ったことがあった。しかし、時給で働く女性は出勤日が減り、給料が下がった。「月給で働く人と一枚岩になるのは難しい」とこぼし、こう続けた。「派遣元は派遣先の味方で、孤立無援だった。権利を主張するすべもない」」
(2016年3月17日千葉日報紙面より引用しています。)
窓の外はさくらの花が大きくさきほこり新緑とあいまって美しいコントラストをかもしだしている霞がかった春の日。紙面を読みながら、心の血を流しながら会社で働き続けた10年以上の日々と、最後はモノ扱いされることとなり損害賠償を求めたら争いとならざるを得ず茨の道を歩むことになった2年の日々があらためて思い返されました。繰り返し書いているような気がしますが、10年以上の日々は人生の中で占める比重がやはり大きく、やっていたことを頭がもう忘れようとしていても体がおぼえてしまっており抜け出していくのは容易ではありません。現在(いま)、全く陽があたることのない、評価もほとんどされることのない地味でつまらない仕事ながら社会の中で必要とされる場にまた立つことができているというのは私にとって大変なことです。争いになってしまってからここまでたどり着く道のりはほんとに長く、出口の見えないトンネルの中に迷い込んでしまったようでした。やっとなんとか抜け出しました。
会社の数字のために二人分働かなければならなかった7年あまりにわたる完全オーバーワークは、今思い出しても吐き気がしそうなほどに辛い日々でした。派遣で働いていてあまりに大変で苦しいと時給10円でもいいからあげてほしいという気持ちになりました。ためしに一度だけ大嫌いな派遣元のスタッフフォローという名目で定期巡回にやってくるお姉さんにたずねてみたことがありました。そうしたら派遣元が私に払う時給を10円あげるためには、派遣先に上積みした金額を請求することになるので派遣先と交渉しなければならなくなる。時給を1円あげるだけでも難しいって言われました。派遣元は私の味方ではないのだと確認して、それ以来一度も賃上げの話に触れたことはありませんでした。
働き始めた頃は年末の休暇が12月29日からだったのが数年前28日からになってしまいました。会社の労働組合が交渉した結果休暇を一日多く勝ち取りました、ということでしたが、時給で働く私にとっては給料が減ることを意味しました。派遣元の有給休暇は会社の稼働日しか使うことができず会社がやすみになってしまえばどれだけ有給休暇がたまっていても消化することはできません。5月1日がメーデーとして公休日となってしまった時も同様でした。固定給でボーナスもあった特定派遣から登録型派遣へと移籍してまで同じ会社で働き続けてしまった私は社会に対する認識が甘すぎました。法に触れるようなこんなばかなことはすべきではありませんでした。私一人で勝手に移籍したわけではなく、会社の当時の上司がすすめたことですが会社には責任なく、私の自己責任として争いは帰結しました。一応派遣元が泥を少しかぶるかたちでしたが実態とはあまりにも大きくかけ離れた結末でした。
昨日の若松英輔さんのお話の中に、「エラクなると人は人生からの問いかけを見逃してしまう」という言葉がありました。キリストの弟子たちは最後の食事の時にも、だれが一番エライかということをお互いに言い合っていたのだそうです。知りませんでした。人の世の愚かさは一世紀から変わっていないのでしょうか。目の前の数字にとりつかれたエライ人たちが組織の意思決定を担っている日本という船の行き先が心配です。どこへ流れ着いていこうとしているのでしょうか。私がエライ人になることなど無論ありえません。人生からの問いかけに耳をかたむけながらひっそりと誠実に妹の分までこれからも歩いていきたいと思っています。
(略)
関東地方に住む女性は、派遣社員として10年以上働いてきた。賃上げを求めたこともあったが、派遣元企業の担当者は「時給を1円上げるだけでも難しい。
派遣先の労組が交渉で休日増を勝ち取ったことがあった。しかし、時給で働く女性は出勤日が減り、給料が下がった。「月給で働く人と一枚岩になるのは難しい」とこぼし、こう続けた。「派遣元は派遣先の味方で、孤立無援だった。権利を主張するすべもない」」
(2016年3月17日千葉日報紙面より引用しています。)
窓の外はさくらの花が大きくさきほこり新緑とあいまって美しいコントラストをかもしだしている霞がかった春の日。紙面を読みながら、心の血を流しながら会社で働き続けた10年以上の日々と、最後はモノ扱いされることとなり損害賠償を求めたら争いとならざるを得ず茨の道を歩むことになった2年の日々があらためて思い返されました。繰り返し書いているような気がしますが、10年以上の日々は人生の中で占める比重がやはり大きく、やっていたことを頭がもう忘れようとしていても体がおぼえてしまっており抜け出していくのは容易ではありません。現在(いま)、全く陽があたることのない、評価もほとんどされることのない地味でつまらない仕事ながら社会の中で必要とされる場にまた立つことができているというのは私にとって大変なことです。争いになってしまってからここまでたどり着く道のりはほんとに長く、出口の見えないトンネルの中に迷い込んでしまったようでした。やっとなんとか抜け出しました。
会社の数字のために二人分働かなければならなかった7年あまりにわたる完全オーバーワークは、今思い出しても吐き気がしそうなほどに辛い日々でした。派遣で働いていてあまりに大変で苦しいと時給10円でもいいからあげてほしいという気持ちになりました。ためしに一度だけ大嫌いな派遣元のスタッフフォローという名目で定期巡回にやってくるお姉さんにたずねてみたことがありました。そうしたら派遣元が私に払う時給を10円あげるためには、派遣先に上積みした金額を請求することになるので派遣先と交渉しなければならなくなる。時給を1円あげるだけでも難しいって言われました。派遣元は私の味方ではないのだと確認して、それ以来一度も賃上げの話に触れたことはありませんでした。
働き始めた頃は年末の休暇が12月29日からだったのが数年前28日からになってしまいました。会社の労働組合が交渉した結果休暇を一日多く勝ち取りました、ということでしたが、時給で働く私にとっては給料が減ることを意味しました。派遣元の有給休暇は会社の稼働日しか使うことができず会社がやすみになってしまえばどれだけ有給休暇がたまっていても消化することはできません。5月1日がメーデーとして公休日となってしまった時も同様でした。固定給でボーナスもあった特定派遣から登録型派遣へと移籍してまで同じ会社で働き続けてしまった私は社会に対する認識が甘すぎました。法に触れるようなこんなばかなことはすべきではありませんでした。私一人で勝手に移籍したわけではなく、会社の当時の上司がすすめたことですが会社には責任なく、私の自己責任として争いは帰結しました。一応派遣元が泥を少しかぶるかたちでしたが実態とはあまりにも大きくかけ離れた結末でした。
昨日の若松英輔さんのお話の中に、「エラクなると人は人生からの問いかけを見逃してしまう」という言葉がありました。キリストの弟子たちは最後の食事の時にも、だれが一番エライかということをお互いに言い合っていたのだそうです。知りませんでした。人の世の愚かさは一世紀から変わっていないのでしょうか。目の前の数字にとりつかれたエライ人たちが組織の意思決定を担っている日本という船の行き先が心配です。どこへ流れ着いていこうとしているのでしょうか。私がエライ人になることなど無論ありえません。人生からの問いかけに耳をかたむけながらひっそりと誠実に妹の分までこれからも歩いていきたいと思っています。