65オヤジのスタイルブック

体罰の先にあるもの

大阪の高ニ男子の自殺による体罰事件、親御さんの無念を思うと胸がいたみます。

名門バスケ部の顧問による体罰。かつて指導を受けていた生徒からも同情の意見があるようですが、顧問が愛情をもって体罰を行ったとしても、感じる側は千差万別で、その行為を肯定はできないと思います。

小学校5年生の時に僕も形は違うのですが、クラスのほとんどが、担任教師から体罰を受けていました。当時学級委員長だった僕は、連帯責任の名の下にビンタなどの体罰を受けていました。

また、個人的見解で、描いた絵を、自らの手で破らされる行為を強いられ、絵を描くことに恐怖を覚える時期もありました。そんな時、母が子供の叫びに気付いてくれ守ってくれました。母の力が無かったら、僕も彼と同じ道をとったのでは思います。

あるときは、鎖骨を握り持ち上げられる脂汗と激痛で気絶寸前の行為もありました。しかも、同じ行為は女子の学級委員長も受けていました。

クラスメートの中には、鼻血が出るまで往復ビンタを受けた人間もいます。また、過去の先輩も体罰を受けた経験を持っていました。

思えば、当時の担任教師は、確かにユーモアがあり、体罰を受けながらも、アメと鞭の使い分けが巧かったのか、問題にはならずその後、体罰は無くなったようで、校長まで務めあげられました。

僕自身も、小学校6年にあがり、体罰がなくなると伸び伸びとした生活を送ることができました。

しかし今の時代、、体罰の先にあるものは、心身共に味わう暴力です。昔と違い、子ども達の中には、以前と比較にならない様々な問題を抱えています。

体罰と言う名の暴力が引き金となり不幸な事件を起こる可能性は今後も続くと思います。生徒が発する小さな信号に教育全体が耳を研ぎ澄ます必要があるのではないでしょうか。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「【エッセイ・コラム】」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事