改ざんの日本史-長崎原爆投下の真実(1)
今回の記事は1冊のタネ本を元に展開します。まずその本を紹介します。著者は元米軍情報部に勤務していた経験があり、多くの非公開文書を目にしたことから、戦争の真実に疑問を持ち、今回の調査に至ったと述べています。
図1:「原爆と秘密結社」
デイビッド・J・ディオニシ(著), 平和教育協会(訳), 成甲書房 2015
この本の前半は著者が調べ上げた米国内の秘密結社の情報が記されています。その中には陰謀論の世界ではおなじみの「スカル・アンド・ボーンズ」「ボヘミアの森」「フリーメーソン」「イルミナティ」などが紹介されていますが、作者の考えでは、それらはその時代や場所でその都度使われる名称であり、それら組織の総体は「死の血盟団(Brotherhood of Death)」であると捉えています。もちろん当事者がその名を名乗っている訳ではなく、便宜上彼らのことをそう呼ぶという意味でこの名称が使われています。
死の血盟団の根幹は悪魔崇拝であり、悪魔と同化することでこの世を支配する力と最高の知性が得られると信じられており、彼らの最大の敵はキリスト教またはキリスト教信者であると教えられています。
また、これまでの二度の世界大戦は彼らが仕組んだものであり、三度目の世界大戦を起こすことで、彼ら「賢者たち」の支配する世界統一政府をこの世にもたらすことが究極の目標として掲げられ、広島、長崎に原子爆弾を投下させたのも彼らが企図したものであると結論付けています。
■長崎原爆投下の不可思議
秘密結社の話などは聞き飽きた方も多いでしょうが、この本の最も秀逸な部分は、長崎に投下されたファットマン(Fat Man)の原爆報道の矛盾点を徹底的に解明している点でしょう。以下、それらを箇条書きにて紹介します。
原爆投下機「ボックスカー (Bock's Car)」に関する矛盾
(1)投下機は北九州の小倉に向かい上空を3回も旋回した末、長崎に進路を向けた
(2)当日の小倉の天候は投下不能になるような悪天候ではなかった
(3)予備燃料600ガロンが給油されておらず、爆弾投下後、出発基地のテニソンには戻れず沖縄にほぼ燃料が空の状態で緊急着陸した
(4)沖縄の米軍基地は同機の緊急着陸の呼びかけに全く応じなかった
(5)サポートに付くはずの救難捜索機に帰還命令が出されていた
(6)同乗取材するはずだった、原爆報道で有名な記者ウィリアム・ローレンスがなぜか乗り遅れた
着弾地点に関する矛盾
(7)爆撃目標と考えられる三菱造船所からなぜか4.6kmも離れた市街地に投下された
(8)気象観測機は出動しており、命中誤差はせいぜい150m程度だった
(9)浦上天主堂の倒壊具合から、爆心地は現在の認定位置から北寄り、現在の平和公園の辺りだったと認められる
(10)米軍発表の写真では浦上天主堂の倒壊した壁が修正されている
(11)浦上天主堂の壁が一部残っていることから、猛烈な爆風が横から当たっていることがわかる。つまり、上空での爆破ではなく地表に近い点で爆破していることが読み取れる。
■長崎は初めからターゲットだった
同機は北九州を3度も旋回したにも拘わらず、投下命令は下されずに長崎に向かいます。定説では、北九州への原爆投下予定だったはずが悪天候のため長崎に変更されたと言われてますが、(2)の事実により当日の天候に問題はなく、当初から長崎が原爆投下地点と決められていた節が感じ取れます。わざわざ3旋回を繰り返したのは、何も知らされていない乗組員に、当初の爆撃目標が北九州であることを印象付けるためだったのでしょうか?
■ボックスカーは墜落するはずだった?
北九州上空での旋回の謎は(3)~(6)の事実を見れば氷解します。燃料の少ない同機をわざわざ何度も旋回させている。そこには任務終了後にボックスカーを燃料不足により東シナ海に墜落させる意図が見え隠れします。証拠隠滅?では何のために?著者の調査によると(6)の記者、ウィリアム・ローレンスは死の血盟団の一員であり、それゆえ民間人記者でありながら重要機密であるはずの原爆投下作戦にフリーパスで参加することができたとしています。狙いはもちろん、原爆投下後の米国内プロパガンダ、現在の米国が主張する「戦争終結に原爆は必要だった」という世論を形成するためです。一つの強力な定説を作り上げるのに、実機乗組員の証言はむしろ邪魔になると考えられます。
ここで昨年の本ブログ記事「旧陸軍士官が語った歴史の真実(2) 」と微妙に符合する点が浮かび上がってきます。同記事では、広島の原爆投下機が投下後に山口県内の山中に墜落したとしています。T氏は爆風による損傷が原因と見ていましたが、もしかしたら、初めから同機に投下後に墜落する仕掛けがなされていた可能性も否定できません。事実、投下機が墜落消滅した後に、架空のエノラゲイ号がデッチ上げられ、戦後の原爆に関する世論が作られていったのは誰の目にも明らかなことです。ただし、広島の場合は少々都合が悪いことに海上でなく陸上に墜落してしまいました。ここで最も不思議な疑問が湧いてきます。破片を回収し戦時広報に利用できるはずなのに、日本はなぜそれに沈黙したのか?という点です。
■原爆は浦上天主堂を狙って落とされた?
本書のクライマックスは、なぜ長崎の市街地に原爆が落とされたのか、その理由を伝えることにあります。結論を先に述べれば、その理由とは、
「戦後、天皇の神格化が解かれることになれば、多くの日本国民がキリスト教徒に改宗するであろう。死の血盟団の天敵であるキリスト教の普及を阻止するには、日本のカトリック宗の聖地である長崎、それも浦上天主堂を破壊し、その信者を抹殺しなければならなかった」
というものです。
後で解説しますが、正直なところ、この理由は、数ある理由の一つではあっても、中核となる理由ではないと私は思っています。それはともかく、(9)~(11)の部分は非常に重要であり、同書の挿絵が非常に小さく見づらいため、本記事でその部分を改めてなぞっていきたいと思います。
図2:浦上天主堂の当時の位置関係(平面)
同書によると当時の浦上天主堂は現在より少し平和公園寄りだった
(クリックで拡大)
図3:浦上天主堂の平面図
太線は原爆投下後も倒壊を免れた部分。石像が目印
図4:原爆投下直後の浦上天主堂
この写真は修正されていないもの。石像の位置に注意
(出典:英文原著 Atomic Bomb Secrets、Kindle 版より)
上記図2~4を見てください。著者はこの位置関係からおかしなことに気づきます。図4の写真からも柱の上の石造を含む南側壁面が残されているのが分かりますが、南壁が残ったのは、天主堂正面に作られた頑丈な鐘塔が爆風を遮ったからだと考えられます(図5)
図5:鐘塔が爆風から南側壁面を守った
すると、爆心地は天主堂の北西よりやや南寄りということになりますが、図2の位置関係から分かるように、公式には爆心地は天主堂の南西ということになっています。公式爆心地が正しいとすると、爆心地に向いている南壁が残り、その影となる北壁が倒壊するという非常に奇妙な説明になります。
これに加え、日本人カメラマンの林重夫氏とそのスタッフが撮影し、公式記録とされている原爆投下後の天主堂の写真は図6のようになります。
図6:林重夫氏が撮影した天主堂の写真
鐘塔寄りの石像と壁が消えている
(出典:英文原著 Atomic Bomb Secrets、Kindle 版より)
写真の撮影角度が違うものの、図4と比べると図6は明らかに南壁の残骸部分に修正が施されていることが分かります。
以上の映像分析、およびその他の資料分析により、著者は実際の爆心地は公式爆心地より200m前後北の地点、現在の平和公園内、それも平和記念像の辺りだろうと結論付けてます。また、図4のように、天主堂の一部の壁が鐘塔の影となりきれいに残っていることから、爆風は横方向から、少なくとも公表されている仕様の上空570m前後の爆発とは考えられず、かなり地表に近い高度で爆発したとしています。そして、図6その他の公式映像記録から、意図的に爆心位置の改ざんが行われたことも指摘しています。
著者の調査によると、本来の爆撃ターゲットと言われている三菱(造船所)はフリーメーソン員のグラバーによって創業支援された企業であり、死の血盟団が企図した原爆攻撃の対象になるはずもなく、初めから、爆撃誤差範囲を大きく逸脱した4.6km北方の浦上天主堂を狙って正確に爆撃が遂行されたのだと、最終結論を導いています。その目的は本節の冒頭に記した通りです。
■爆心位置改ざんの意図を考察する(1)
同書でスッキリしないのは、なぜ爆心位置が改ざんされたのか、その説明にいま一つ説得力が欠けている点にあると思います。浦上天主堂の破壊とキリスト教信者の抹殺が目的なら、その目的は既に十分達成されており、わずか200m程度の爆心地の違いを必死に隠蔽する理由がわかりません。
それが理由だとはっきり書かれてはいませんが、現在の平和公園のある高台は原爆投下時は長崎刑務所浦上刑務支所の敷地であり、公式記録には無いものの、連合軍の捕虜も30名程度いたと著者は調べ上げています。連合軍の原爆が連合軍捕虜の収監されている刑務所に投下されたのでは明らかにまずい、それなら爆心地を少しずらしてしまえということなのでしょうか?市街地のどこに投下されても捕虜の爆死は確定的であり、改ざんが露呈すればむしろ藪蛇となるリスクをわざわざ負うものでしょうか?
そもそも、現在10億人以上もいるカトリック信者を敵視しているなら、長崎の2万人の信者を狙ったという理由も弱い気がします。仮に長崎が被爆せず、布教が進み日本のキリスト教徒が2~3000万人になっても(現在は100万人前後)、既に世界の大宗教であるカトリック信者の数に比べればものの数ではありません。原爆を投下してまで、その目的を遂行する理由が果たしてあったのでしょうか。
この点に関しては、著者と直接に議論を詰める必要があると思っています。
■爆心位置改ざんの意図を考察する(2)
現地に行けば分かることですが、平和公園はそこだけ高台になっています。先に述べたように戦中は刑務所がそこに設置されていました。以下に垂直方向の位置関係を図に書き起こしてみました。現地の記憶と地図を頼りにしてますので若干不正確であることはお許しください。
図7:浦上天主堂の当時の位置関係(高低)
平和公園の下には刑務所の地下室跡なども保存されており
戦前からここが高台であったことが分かる。天主堂は真横
長崎に行かれた方ならばお分かりの通り、長崎は南北に伸びた入り江に東西から急峻な山裾が迫っている、いわゆるすり鉢上の地形をしています。平地は非常に少なく、現在のJR長崎駅や周辺市街地は埋立地の上に建設されています。そんな中にあって、旧市街地の真中に小高く聳える平和公園(旧刑務所跡)の高台には何か違和感を感じます。
図7のようにこの高台に2,3階立ての庁舎が建っていたとすると、その屋上からからは狭い旧長崎市街が一望に見渡せると思われます。天主堂は東側に少し坂を上ったところにあり、高台の上の建物からは2基の鐘塔に挟まれた正面入り口がほぼ真横に見える位置にあったと推測されます。
何を言いたいのか?、仮に旧庁舎の屋上に原爆が設置され爆発したとしましょう。その仮説をベースとすることにより多くの事象が説明可能となることに気が付きます。以下、この仮説に基づいて論を進めます。
(A)ボックスカーに搭載されていた原爆ファットマンはダミーであった。
タイミングを合わせ地上に設置された原爆を起爆させた。
戦争相手の日本がこれから起爆させる原爆を予め手にしていたなど、戦争当事者としてはあってはならないことです。当然ながら、乗組員にはその事実は一切知らされないはずです。また、万が一乗組員や関係者に気が付かれる危険を回避するため、任務遂行後に同機を墜落させるように仕組んだと考えられます。
(B)そのため、天主堂は北西側の真横から爆風を受けたように倒壊した
これは図4のようにそのまま記録に残っていることなので解説の必要はないでしょう。
(C)地上起爆であることは絶対に気が付かれてはならないことだった。
マンハッタン計画の原爆実験記録によると、爆破の際に地表方向に高さ数メートルの穴ができたとあります。地上で起爆させればその痕跡は確実に地表に現れるはずですから、地上起爆を隠すためには爆心地の改ざんが絶対的に必要となります。
この他、当時の気圧感応式の起爆装置に狙った高度で確実に起爆させるだけの精度がなかったことも考えられます。安全装置はあるでしょうから、装置を外した投下直後に投下機材に現場離脱するだけの適正な退避時間を与えられるかが大事になります。感度が高過ぎれば早くに爆破し投下機を傷つけ地上への殺傷力も減衰します。しかし、感度を落とせば最悪不発ということもあり得ます。効果を確実にするには地上爆破、それも高い位置での爆破が一番確実だと考えられます。
以上の内、(C)の要素こそ最も重要であり、爆心地改ざんに関して地上爆破説に勝る仮説は今のところ考え付きません。どうして戦争中の日本国内に、敵国である米国の原爆があるんだと思われるのは尤もな話ですが、それについても同書の中にヒントになる記述が幾つか見当たります。
(X)三菱とフリーメーソンの関係(上記既出)
(Y)徳川家と死の血盟団との関係
(Z)北朝鮮おける日本の原爆開発の実体
以前から本ブログでも指摘してるように、裏の裏に潜む秘密結社の活動を国家の枠組みで捉えること自体が無意味だと気が付かれるべきです。その中で(Y)の、日本の影の経済支配者である徳川家と西洋秘密結社がいつの時点でつながっていたかを知ることは非常に重要です。残念ながら同書では両者に接触がある以上の情報は語られていませんが、私の推測では鎖国時代と呼ばれる徳川の治世に、欧州および米国とのコネクションはすでにあったと見ています。もっと簡単に言えば、「鎖国」などという事実は日本史上そもそもなかったのです。
また、(Z) の日本の原爆開発はたいへん進んでいたと著者は記しています。これは、米軍在籍時代に目にした極秘資料から得た結論とのことで、日本製原爆の開発拠点は現在の北朝鮮にあり、朝鮮戦争は米ソの軍事力を均衡化するため、ソ連に原爆製造技術を渡す目的で、敢えて勝ってはならない戦争として発動させたと結んでいます。ここからまた、現在の北朝鮮の核開発は、実は戦時中の旧日本軍の置き土産だと類推することができます。
以上の考察から、下記の重要な結論が導かれます。
長崎の原爆は日米秘密結社の共同作戦であった
または、世界的秘密結社の共通アジェンダであったと言うことができるでしょう。
■そして暴かれる広島・長崎の真の目的(序)
今回の記事は1話でまとめるつもりでしたが、長くなったので広島・長崎への原爆使用目的については第2話として次の記事に回したいと思います。さて、今回のおさらいですが、ディオニシ氏は長崎原爆投下の最終目的を
「浦上天主堂の破壊と信者の抹殺」
と捉えています。私の場合はこの回答に次のような疑問を更に付け加えます
「では、なぜ浦上天主堂は辺鄙な長崎の地に建設されたのか?」
ここが解明されない限り、原爆投下の真の理由は全く理解できないと思います。そのためには古代日本人の信仰形態がどうであったのか、また、アジアを訪れた近世のカトリック伝道師たちが、布教先でいったい何をしていたのか、それらを知る必要があります。そして、そのヒントとなる情報は、既に本ブログの他の記事で処々触れています。
* * *
何でもかんでも結び付けるなと怒られるかもしれませんが、今回の長崎原爆の真実も、やはりあの事件とリンクします。1985年のバブル絶頂の日本、首都東京からわずか80kmしか離れていない山中で、米ソの特殊部隊と自衛隊が出動し、最終的には事故として処理されたJAL123便事件。これを多国間共同作戦と言わずして何と言いましょう。そして、その事件が起こる前の第二次大戦の最中ですら国家の枠組みを超えた大きな力が世の中を動かしていたことに改めて驚かされます。
先の5月27日オバマ米国大統領が広島を訪れましたが、その前にオバマ氏はあの方とお会いしたのでしょうか?来日する歴代米国大統領が、総理大臣、駐日米国大使、そして今上天皇よりも先に出向いて挨拶するというあのお方です。もちろん日本人ですよ。
図8:原爆ドームを背景に演説するオバマ米国大統領
全てを知って演説しているとしたら、とんだ茶番劇だ
これまで語られてきた歴史の大嘘に、いよいよ世界の人民が気付く時がやって来ました。キリスト者の使命として長崎原爆の調査研究に当たられたディオニシ氏に敬意を表すると共に、神の祝福が氏の下にあらんことを心よりお祈り申し上げます。
遠つ祖霊の始りの地より
管理人 日月土
図1:「原爆と秘密結社」
デイビッド・J・ディオニシ(著), 平和教育協会(訳), 成甲書房 2015
この本の前半は著者が調べ上げた米国内の秘密結社の情報が記されています。その中には陰謀論の世界ではおなじみの「スカル・アンド・ボーンズ」「ボヘミアの森」「フリーメーソン」「イルミナティ」などが紹介されていますが、作者の考えでは、それらはその時代や場所でその都度使われる名称であり、それら組織の総体は「死の血盟団(Brotherhood of Death)」であると捉えています。もちろん当事者がその名を名乗っている訳ではなく、便宜上彼らのことをそう呼ぶという意味でこの名称が使われています。
死の血盟団の根幹は悪魔崇拝であり、悪魔と同化することでこの世を支配する力と最高の知性が得られると信じられており、彼らの最大の敵はキリスト教またはキリスト教信者であると教えられています。
また、これまでの二度の世界大戦は彼らが仕組んだものであり、三度目の世界大戦を起こすことで、彼ら「賢者たち」の支配する世界統一政府をこの世にもたらすことが究極の目標として掲げられ、広島、長崎に原子爆弾を投下させたのも彼らが企図したものであると結論付けています。
■長崎原爆投下の不可思議
秘密結社の話などは聞き飽きた方も多いでしょうが、この本の最も秀逸な部分は、長崎に投下されたファットマン(Fat Man)の原爆報道の矛盾点を徹底的に解明している点でしょう。以下、それらを箇条書きにて紹介します。
原爆投下機「ボックスカー (Bock's Car)」に関する矛盾
(1)投下機は北九州の小倉に向かい上空を3回も旋回した末、長崎に進路を向けた
(2)当日の小倉の天候は投下不能になるような悪天候ではなかった
(3)予備燃料600ガロンが給油されておらず、爆弾投下後、出発基地のテニソンには戻れず沖縄にほぼ燃料が空の状態で緊急着陸した
(4)沖縄の米軍基地は同機の緊急着陸の呼びかけに全く応じなかった
(5)サポートに付くはずの救難捜索機に帰還命令が出されていた
(6)同乗取材するはずだった、原爆報道で有名な記者ウィリアム・ローレンスがなぜか乗り遅れた
着弾地点に関する矛盾
(7)爆撃目標と考えられる三菱造船所からなぜか4.6kmも離れた市街地に投下された
(8)気象観測機は出動しており、命中誤差はせいぜい150m程度だった
(9)浦上天主堂の倒壊具合から、爆心地は現在の認定位置から北寄り、現在の平和公園の辺りだったと認められる
(10)米軍発表の写真では浦上天主堂の倒壊した壁が修正されている
(11)浦上天主堂の壁が一部残っていることから、猛烈な爆風が横から当たっていることがわかる。つまり、上空での爆破ではなく地表に近い点で爆破していることが読み取れる。
■長崎は初めからターゲットだった
同機は北九州を3度も旋回したにも拘わらず、投下命令は下されずに長崎に向かいます。定説では、北九州への原爆投下予定だったはずが悪天候のため長崎に変更されたと言われてますが、(2)の事実により当日の天候に問題はなく、当初から長崎が原爆投下地点と決められていた節が感じ取れます。わざわざ3旋回を繰り返したのは、何も知らされていない乗組員に、当初の爆撃目標が北九州であることを印象付けるためだったのでしょうか?
■ボックスカーは墜落するはずだった?
北九州上空での旋回の謎は(3)~(6)の事実を見れば氷解します。燃料の少ない同機をわざわざ何度も旋回させている。そこには任務終了後にボックスカーを燃料不足により東シナ海に墜落させる意図が見え隠れします。証拠隠滅?では何のために?著者の調査によると(6)の記者、ウィリアム・ローレンスは死の血盟団の一員であり、それゆえ民間人記者でありながら重要機密であるはずの原爆投下作戦にフリーパスで参加することができたとしています。狙いはもちろん、原爆投下後の米国内プロパガンダ、現在の米国が主張する「戦争終結に原爆は必要だった」という世論を形成するためです。一つの強力な定説を作り上げるのに、実機乗組員の証言はむしろ邪魔になると考えられます。
ここで昨年の本ブログ記事「旧陸軍士官が語った歴史の真実(2) 」と微妙に符合する点が浮かび上がってきます。同記事では、広島の原爆投下機が投下後に山口県内の山中に墜落したとしています。T氏は爆風による損傷が原因と見ていましたが、もしかしたら、初めから同機に投下後に墜落する仕掛けがなされていた可能性も否定できません。事実、投下機が墜落消滅した後に、架空のエノラゲイ号がデッチ上げられ、戦後の原爆に関する世論が作られていったのは誰の目にも明らかなことです。ただし、広島の場合は少々都合が悪いことに海上でなく陸上に墜落してしまいました。ここで最も不思議な疑問が湧いてきます。破片を回収し戦時広報に利用できるはずなのに、日本はなぜそれに沈黙したのか?という点です。
■原爆は浦上天主堂を狙って落とされた?
本書のクライマックスは、なぜ長崎の市街地に原爆が落とされたのか、その理由を伝えることにあります。結論を先に述べれば、その理由とは、
「戦後、天皇の神格化が解かれることになれば、多くの日本国民がキリスト教徒に改宗するであろう。死の血盟団の天敵であるキリスト教の普及を阻止するには、日本のカトリック宗の聖地である長崎、それも浦上天主堂を破壊し、その信者を抹殺しなければならなかった」
というものです。
後で解説しますが、正直なところ、この理由は、数ある理由の一つではあっても、中核となる理由ではないと私は思っています。それはともかく、(9)~(11)の部分は非常に重要であり、同書の挿絵が非常に小さく見づらいため、本記事でその部分を改めてなぞっていきたいと思います。
図2:浦上天主堂の当時の位置関係(平面)
同書によると当時の浦上天主堂は現在より少し平和公園寄りだった
(クリックで拡大)
図3:浦上天主堂の平面図
太線は原爆投下後も倒壊を免れた部分。石像が目印
図4:原爆投下直後の浦上天主堂
この写真は修正されていないもの。石像の位置に注意
(出典:英文原著 Atomic Bomb Secrets、Kindle 版より)
上記図2~4を見てください。著者はこの位置関係からおかしなことに気づきます。図4の写真からも柱の上の石造を含む南側壁面が残されているのが分かりますが、南壁が残ったのは、天主堂正面に作られた頑丈な鐘塔が爆風を遮ったからだと考えられます(図5)
図5:鐘塔が爆風から南側壁面を守った
すると、爆心地は天主堂の北西よりやや南寄りということになりますが、図2の位置関係から分かるように、公式には爆心地は天主堂の南西ということになっています。公式爆心地が正しいとすると、爆心地に向いている南壁が残り、その影となる北壁が倒壊するという非常に奇妙な説明になります。
これに加え、日本人カメラマンの林重夫氏とそのスタッフが撮影し、公式記録とされている原爆投下後の天主堂の写真は図6のようになります。
図6:林重夫氏が撮影した天主堂の写真
鐘塔寄りの石像と壁が消えている
(出典:英文原著 Atomic Bomb Secrets、Kindle 版より)
写真の撮影角度が違うものの、図4と比べると図6は明らかに南壁の残骸部分に修正が施されていることが分かります。
以上の映像分析、およびその他の資料分析により、著者は実際の爆心地は公式爆心地より200m前後北の地点、現在の平和公園内、それも平和記念像の辺りだろうと結論付けてます。また、図4のように、天主堂の一部の壁が鐘塔の影となりきれいに残っていることから、爆風は横方向から、少なくとも公表されている仕様の上空570m前後の爆発とは考えられず、かなり地表に近い高度で爆発したとしています。そして、図6その他の公式映像記録から、意図的に爆心位置の改ざんが行われたことも指摘しています。
著者の調査によると、本来の爆撃ターゲットと言われている三菱(造船所)はフリーメーソン員のグラバーによって創業支援された企業であり、死の血盟団が企図した原爆攻撃の対象になるはずもなく、初めから、爆撃誤差範囲を大きく逸脱した4.6km北方の浦上天主堂を狙って正確に爆撃が遂行されたのだと、最終結論を導いています。その目的は本節の冒頭に記した通りです。
■爆心位置改ざんの意図を考察する(1)
同書でスッキリしないのは、なぜ爆心位置が改ざんされたのか、その説明にいま一つ説得力が欠けている点にあると思います。浦上天主堂の破壊とキリスト教信者の抹殺が目的なら、その目的は既に十分達成されており、わずか200m程度の爆心地の違いを必死に隠蔽する理由がわかりません。
それが理由だとはっきり書かれてはいませんが、現在の平和公園のある高台は原爆投下時は長崎刑務所浦上刑務支所の敷地であり、公式記録には無いものの、連合軍の捕虜も30名程度いたと著者は調べ上げています。連合軍の原爆が連合軍捕虜の収監されている刑務所に投下されたのでは明らかにまずい、それなら爆心地を少しずらしてしまえということなのでしょうか?市街地のどこに投下されても捕虜の爆死は確定的であり、改ざんが露呈すればむしろ藪蛇となるリスクをわざわざ負うものでしょうか?
そもそも、現在10億人以上もいるカトリック信者を敵視しているなら、長崎の2万人の信者を狙ったという理由も弱い気がします。仮に長崎が被爆せず、布教が進み日本のキリスト教徒が2~3000万人になっても(現在は100万人前後)、既に世界の大宗教であるカトリック信者の数に比べればものの数ではありません。原爆を投下してまで、その目的を遂行する理由が果たしてあったのでしょうか。
この点に関しては、著者と直接に議論を詰める必要があると思っています。
■爆心位置改ざんの意図を考察する(2)
現地に行けば分かることですが、平和公園はそこだけ高台になっています。先に述べたように戦中は刑務所がそこに設置されていました。以下に垂直方向の位置関係を図に書き起こしてみました。現地の記憶と地図を頼りにしてますので若干不正確であることはお許しください。
図7:浦上天主堂の当時の位置関係(高低)
平和公園の下には刑務所の地下室跡なども保存されており
戦前からここが高台であったことが分かる。天主堂は真横
長崎に行かれた方ならばお分かりの通り、長崎は南北に伸びた入り江に東西から急峻な山裾が迫っている、いわゆるすり鉢上の地形をしています。平地は非常に少なく、現在のJR長崎駅や周辺市街地は埋立地の上に建設されています。そんな中にあって、旧市街地の真中に小高く聳える平和公園(旧刑務所跡)の高台には何か違和感を感じます。
図7のようにこの高台に2,3階立ての庁舎が建っていたとすると、その屋上からからは狭い旧長崎市街が一望に見渡せると思われます。天主堂は東側に少し坂を上ったところにあり、高台の上の建物からは2基の鐘塔に挟まれた正面入り口がほぼ真横に見える位置にあったと推測されます。
何を言いたいのか?、仮に旧庁舎の屋上に原爆が設置され爆発したとしましょう。その仮説をベースとすることにより多くの事象が説明可能となることに気が付きます。以下、この仮説に基づいて論を進めます。
(A)ボックスカーに搭載されていた原爆ファットマンはダミーであった。
タイミングを合わせ地上に設置された原爆を起爆させた。
戦争相手の日本がこれから起爆させる原爆を予め手にしていたなど、戦争当事者としてはあってはならないことです。当然ながら、乗組員にはその事実は一切知らされないはずです。また、万が一乗組員や関係者に気が付かれる危険を回避するため、任務遂行後に同機を墜落させるように仕組んだと考えられます。
(B)そのため、天主堂は北西側の真横から爆風を受けたように倒壊した
これは図4のようにそのまま記録に残っていることなので解説の必要はないでしょう。
(C)地上起爆であることは絶対に気が付かれてはならないことだった。
マンハッタン計画の原爆実験記録によると、爆破の際に地表方向に高さ数メートルの穴ができたとあります。地上で起爆させればその痕跡は確実に地表に現れるはずですから、地上起爆を隠すためには爆心地の改ざんが絶対的に必要となります。
この他、当時の気圧感応式の起爆装置に狙った高度で確実に起爆させるだけの精度がなかったことも考えられます。安全装置はあるでしょうから、装置を外した投下直後に投下機材に現場離脱するだけの適正な退避時間を与えられるかが大事になります。感度が高過ぎれば早くに爆破し投下機を傷つけ地上への殺傷力も減衰します。しかし、感度を落とせば最悪不発ということもあり得ます。効果を確実にするには地上爆破、それも高い位置での爆破が一番確実だと考えられます。
以上の内、(C)の要素こそ最も重要であり、爆心地改ざんに関して地上爆破説に勝る仮説は今のところ考え付きません。どうして戦争中の日本国内に、敵国である米国の原爆があるんだと思われるのは尤もな話ですが、それについても同書の中にヒントになる記述が幾つか見当たります。
(X)三菱とフリーメーソンの関係(上記既出)
(Y)徳川家と死の血盟団との関係
(Z)北朝鮮おける日本の原爆開発の実体
以前から本ブログでも指摘してるように、裏の裏に潜む秘密結社の活動を国家の枠組みで捉えること自体が無意味だと気が付かれるべきです。その中で(Y)の、日本の影の経済支配者である徳川家と西洋秘密結社がいつの時点でつながっていたかを知ることは非常に重要です。残念ながら同書では両者に接触がある以上の情報は語られていませんが、私の推測では鎖国時代と呼ばれる徳川の治世に、欧州および米国とのコネクションはすでにあったと見ています。もっと簡単に言えば、「鎖国」などという事実は日本史上そもそもなかったのです。
また、(Z) の日本の原爆開発はたいへん進んでいたと著者は記しています。これは、米軍在籍時代に目にした極秘資料から得た結論とのことで、日本製原爆の開発拠点は現在の北朝鮮にあり、朝鮮戦争は米ソの軍事力を均衡化するため、ソ連に原爆製造技術を渡す目的で、敢えて勝ってはならない戦争として発動させたと結んでいます。ここからまた、現在の北朝鮮の核開発は、実は戦時中の旧日本軍の置き土産だと類推することができます。
以上の考察から、下記の重要な結論が導かれます。
長崎の原爆は日米秘密結社の共同作戦であった
または、世界的秘密結社の共通アジェンダであったと言うことができるでしょう。
■そして暴かれる広島・長崎の真の目的(序)
今回の記事は1話でまとめるつもりでしたが、長くなったので広島・長崎への原爆使用目的については第2話として次の記事に回したいと思います。さて、今回のおさらいですが、ディオニシ氏は長崎原爆投下の最終目的を
「浦上天主堂の破壊と信者の抹殺」
と捉えています。私の場合はこの回答に次のような疑問を更に付け加えます
「では、なぜ浦上天主堂は辺鄙な長崎の地に建設されたのか?」
ここが解明されない限り、原爆投下の真の理由は全く理解できないと思います。そのためには古代日本人の信仰形態がどうであったのか、また、アジアを訪れた近世のカトリック伝道師たちが、布教先でいったい何をしていたのか、それらを知る必要があります。そして、そのヒントとなる情報は、既に本ブログの他の記事で処々触れています。
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何でもかんでも結び付けるなと怒られるかもしれませんが、今回の長崎原爆の真実も、やはりあの事件とリンクします。1985年のバブル絶頂の日本、首都東京からわずか80kmしか離れていない山中で、米ソの特殊部隊と自衛隊が出動し、最終的には事故として処理されたJAL123便事件。これを多国間共同作戦と言わずして何と言いましょう。そして、その事件が起こる前の第二次大戦の最中ですら国家の枠組みを超えた大きな力が世の中を動かしていたことに改めて驚かされます。
先の5月27日オバマ米国大統領が広島を訪れましたが、その前にオバマ氏はあの方とお会いしたのでしょうか?来日する歴代米国大統領が、総理大臣、駐日米国大使、そして今上天皇よりも先に出向いて挨拶するというあのお方です。もちろん日本人ですよ。
図8:原爆ドームを背景に演説するオバマ米国大統領
全てを知って演説しているとしたら、とんだ茶番劇だ
これまで語られてきた歴史の大嘘に、いよいよ世界の人民が気付く時がやって来ました。キリスト者の使命として長崎原爆の調査研究に当たられたディオニシ氏に敬意を表すると共に、神の祝福が氏の下にあらんことを心よりお祈り申し上げます。
遠つ祖霊の始りの地より
管理人 日月土
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