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アブリコのCinema散策

のんびり映画でも観ませんか

美しい人 2006年 アメリカ

2008-04-16 | ヒューマン・ドラマ
9人の女性たちの、それぞれの奥底に秘めた悲しみを綴った人間ドラマ。
原題は『9 lives』
’99の『彼女を見ればわかること』のときもそうだったが、ロドリゴ・ガルシア監督は、静かに、且つ理性的に、女性の心のもろさを表現するのが抜群に巧い。
女性たちは強いばかりではないということを、実証してくれる希少価値的な作品である。

各々の心裏にクローズアップさせた撮り方は非常に現実味を帯びており、カメラワークもドキュメンタリー風で、各ストーリーは極めて短いにもかかわらず満足感がある。

感情を抑えきれないサンドラ。
未練を断ち切れないダイアナ。
過去を捨てきれないホリー。
辛さを分かち合えないソニア。
すべてを背負い込んでしまうサマンサ。
配慮に欠けるローサ。
家族の温かさにようやく気づかされるルース。
自己本位なカミール。
思いにふけるマギー。

ラストで、マギーがこう呟く。
「疲れちゃった」と。
すべての女性たちの本音を代弁したかのように、作品全体を、この言葉で締めくくっている。

父、帰る 2003年 ロシア

2008-04-11 | ヒューマン・ドラマ
“彼”が家に戻ってきた。
12年振りに。
一体、何しに来たんだろう。
ママに聞けば、「“帰ってきた”のよ」と言う。
寝室へ行くと、“彼”は静かな寝息を立てていた。
そうだ、確か・・・ 図鑑に挿んであった、古ぼけた写真。
4人で写っている ―― ママに、アンドレイ、僕・・・ 確かにパパだ・・・

翌朝“彼”は、僕たち3人で旅行に行くと言った。
釣竿を車に積んで。
アンドレイはちょっと嬉しそうだったけど、僕は気が進まない。
ママは行かないらしい。

“彼”は、何もかも自分でやれと言う。
反抗すれば、その場で置き去りにされる。
まったくなんだっていうんだ。
ママならこんなこと、絶対にしない。
あいつは僕たちが嫌いなんだ、そうさ、そうに決まってる。
もしかしたら、パパなんてのも嘘かもしれない・・・

日本では、父親に叱られる子が少なくなってきているそうだ。
やはり、父親の一喝というのは大事なことだろう。
親父の威厳は是非、保っていただきたいものである。

イワンと兄のアンドレイには、ほとんど父親の記憶がない。
いきなり帰ってきた父と一緒にいても、どうも釈然としない。
父親というものが、どういう存在か解らないから。
後にイワンが、「パパ!」と叫ぶシーンがある。
本心からの叫びだった。
子どもたちに伝わったのが言葉ではなく誠心だということに、やっと彼らも気づいたのだろう。

全編において、ロングショットが絶妙な効果を生み出していた。
何もない美しさの中に見せる寂しさが、これらのショットで物語っていた。
息子たちの、父へのやりきれなさが、この静寂の中で見事に反映されている。

2003年度のヴェネチア映画祭 金獅子賞作品ということで鑑賞してみたが、十分に納得のいく映画でありました。

フィッシャー・キング ’91 アメリカ

2008-03-26 | ヒューマン・ドラマ
〈口は禍のもと〉と念頭において喋る人は、まずいないだろう。
本人は意識せずに言ったことでも、聞く人によっては心を傷つけられるほどの痛手を受けることだってある。
「失言だった、撤回する」と言ったって、すでに出てしまった言葉を消すことはできない。
時に「言葉」は、凶器となることだってある。

人気DJだったジャック・ルーカスの発した言葉によって、不幸にも大惨事が起きてしまう。
ラジオと“お友だち”だったあるリスナーは、過激なジャックのトークを鵜呑みにし、行きつけのバーで猟銃を放ち、7人もの犠牲者を出すほどの暴虐事件を起こす。
3年後、仕事も辞め、名誉も失ったジャックは、妙なホームレス、バリーと出会う。
その後ジャックは、バリーの妻が、3年前のあの事件で犠牲となったことを知り、彼のために力を貸そうと奔走する。

“オレ様”だったジャックが、人の力になろうと、人間らしさと真の男らしさを取り戻していく。
そのひねくれ者ジャックを支える、肝っ玉恋人アンとの関係がいい。
恋することにためらう大人たちに、勇気を与えてくれそうだ。

一方で、海の向こうの話と考えられていた事件が、21世紀となった日本でも起こってしまっているという現実が、恐ろしく残念であるとともに、言葉を発信するメディアは一層、言葉選びの慎重さを持さなければならないのかもしれないなどと、この作品を観ながら考えてしまった。

永遠(とわ)の語らい 2003年 ポルトガル・フランス

2008-03-12 | ヒューマン・ドラマ
古代文明・遺跡を巡る母娘二人の船旅。
パイロットである父親が、インドのボンベイで降り立つということで、そこで家族三人は落ち合う予定であった。
歴史学教授である母親は、わが娘に生きた世界の歴史を見せようと、各地で寄港できるよう飛行機ではなく、あえて船を使うことにしたのだった。

リスボンを出航して、フランスのマルセイユに。
それからイタリアのナポリへ。
カステル・デローヴォやポンペイ遺跡を見学し、ギリシャへ移ってはアクロポリスの美しさを堪能する。
かつてのコンスタンティノープル(現イスタンブール)では、イスラム寺院を巡り、イスラム文化の奥深さを知り感慨に耽る。
エジプトのカイロに渡っては、古代エジプト王などの墓である壮大なピラミッドを前に、母は娘に世界最古の文明であることを説く。

だが、これまでの平穏さが一転してしまう。
予想だにしなかっただけに、ラストはかなりの衝撃である。
映像には無いが、船長の慟哭を思い、以後、彼は十字架を背負って生きてゆくのだろう。

ボルベール 〈帰郷〉 2006年 スペイン

2008-01-26 | ヒューマン・ドラマ
ペネロペ・クルスがよかった。
久し振りの母国での撮影とあって、生き生きと、実に輝かしい演技を見せてくれた。
近年、ハリウッドでの活動が続いていた彼女ではあったが、こうしたヨーロッパ作品では、まるで水を得た魚のようである。
アメリカでは言葉の壁にも苦労したらしいが、米・欧映画と見比べてみても、後者のほうが、ずっと彼女らしさが出ていると思う。

’99の『オール・アバウト・マイ・マザー』と同様に、本作品も〈母親〉を意識した映画である。
母の無償の愛、切っても切れない親子の絆、母親と娘の葛藤をもあからさまに表現していた。
何があろうと、あなたは私の娘。
いつまでも、ママはわたしのママ。
それは、永遠に変わることはない。

『オール・アバウト~』を観たときに、原色の赤が際立っていたのがとても印象的で、今回の作品でも、この演出が見事に効いていた。
カラフルな配色が、まるでスペイン絵画のようでオシャレ。

話は前に戻るが、今回のペネロペの演技は、往年のイタリア女優、ソフィア・ローレンを見ているようだった。
強くて勝気でセクシーで、でも働き者で気丈な女性、ライムンダを演じたペネロペはまさに、ソフィアのような堂々たる貫禄であった。

月曜日に乾杯! 2002年 イタリア・フランス

2007-12-10 | ヒューマン・ドラマ
毎日同じことの繰り返しで、これといった変化もなく、「あー、何か面白いことでもないかなぁー」と独り言を言ってみたり、どういうわけか他人の生活のほうが自分よりも楽しそうに映って見えたり、人はどうも、自分のほうが他の人よりも損をしているように思案してしまいがちだ。
隣の芝生は青く、隣で食べている人の料理のほうが美味しそうに見えるのも単純な心理なのだろうが。

毎日一時間半かけて仕事へ行き、帰れば妻には愚痴られ、雑用ばかり ―― そんな日々にうんざりしたヴァンサンは、退屈な日常から逃れるように旅に出てしまう。
訪れた水の都ヴェニスでは、新たな出会いもあって、ヴァンサンは晴れやかな気持ちで旅を楽しむのだが・・・

旅に出るのは楽しい。
現実を忘れさせてくれる。
でも家に帰れば、ホッとするのも事実だ。
ふと、夏目漱石の『草枕』を思い出した。
有名な書き出しの中で、“とかくに人の世は住みにくい。”とある。
だから我々も、旅を理由に逃避したくなるのである。

ヴァンサンの気持ちは解らないでもない。
でも、ごくごく平凡な日々が幸せなんだということを、普段我々が気づいていないだけなのかもしれない。
気楽さを求めていても埒が明かない。
先の小説で、こんなくだりがあった。
“気楽も、気楽でないも、世の中は気の持ちよう一つでどうでもなります。”
確かに。

ブロークン・フラワーズ 2005年 アメリカ

2007-08-16 | ヒューマン・ドラマ
ドン・ジョンストンは(よく“ジョンソン”に間違われる)、かつてはかなりの女たらしであったようだ。
同時期に付き合っていた恋人が複数いたらしい。
それが今では、テレビで『Don Juan(ドン・ファン)』を観、常にジャージ姿でボーッとしている、すっかりくたびれたオッサンになっていた。
コンピュータで一旗あげ、一躍有名になった(ようだ)が、成功の基であるコンピュータは、家に一台も置いていないという変わった男であった。

彼の家に、ピンク色の封筒が届く。
送り主のサインも住所も記されていない。
手紙には、タイプライターでこう打たれていた。
「20年前にあなたと別れてから妊娠に気づきました。 息子は19才になります。 息子があなたに会いに行くと・・・」

隣家のドンの友人ウィンストンは、興味津々でこの件に首を突っ込み、当時の彼女たちをリストアップして会いに行け、と言う。

ウィンストンの調べによると(彼は刑事でも探偵でもない)、5人のうち1人は、交通事故ですでに亡くなっているという。
後の手筈は(地図やらレンタカーや宿泊先まで)全て彼が整えるというおせっかいさ。
ここまでお膳立てされては、ドンも行かないわけにはいくまい。
ピンクの花束を用意し、彼はかつての恋人たちを訪ねに各地を廻る。

再会した女性たちが皆、彼を愛していたんだということが観る側にもはっきりと伝わってくるのがわかるのだが、もう「この野郎」です、ドンは(笑)
しかも彼女たちってば、20年経った今でもスリムで美人なんだ、これが。

旅の終わりに、亡くなったミッシェル・ぺぺの墓前で涙ぐむドン。
もしかしたら、本当に愛してた女性(ひと)だったのか、それとも、俺は一体何をやってるんだという嘆きだったのか。

気を持たせるラストが、ジャームッシュらしい作品でもある。
個人的に、ビル・マーレイが適役だったのと、この『Broken Flowers』という題名が気に入った。

無伴奏「シャコンヌ」 ’94 フランス・ベルギー・ドイツ

2007-07-19 | ヒューマン・ドラマ
いい映画である。
観終わってからも、しばらくは座ったままの状態で、音の余韻に浸っていたい。

クラシック音楽も『のだめ』等の影響もあって大ブームとばかりに、若い人達も聴く機会が増えて、なかなか良い傾向ではある。
残念ながら、熱しやすく冷めやすい日本人だから、韓流ブーム同様、陰りもそろそろ見え始めてもきているようだが・・・

ヨハン・セバスチャン・バッハ作曲のヴァイオリン曲『シャコンヌ』。
無伴奏であるが故、当然ヴァイオリニストの高度なテクニックが必要となる。
聴けば分かるように『シャコンヌ』は、様々な様相を呈しているうえ、変奏を多用している。
劇中でしばしば短い変奏が流れるたび、主人公アルマンの思いとが重なっているようで、この崇高な音色と、彼のひたむきさが合致していることに驚かされる。

ヴァイオリニストとしてのキャリアを捨て、自らの音楽を探求するアルマン。
やっと自分の納得のいく演奏を見つけ戻ったときには、彼の居場所はどこにもなく・・・

ラストおよそ15分の荘重な演奏の中に、先に述べた「アルマンの思い」のすべてが、ここに込められている。

21グラム 2003年 アメリカ

2007-07-08 | ヒューマン・ドラマ
人は死ぬと、21グラム軽くなるのだそうだ。
5セント硬貨5枚の重さ。
ハチドリの重さ。
21グラム。
何故、21グラムなのだろうか。

ゴールデンウィークに公開され、何かと話題になった『バベル』。
これと同様、本作品も人と時間が錯綜している。
イニャリトゥ監督は、こういった手法が好きなのだろう。
よぉく観ていないと、どれが現在(いま)か混乱するかもしれない。
先を映していたかと思うと突然過去になり、はたまた現在をとばして、またその先を見せていたり。
そこが屈折した面白さと言おうか。

イニャリトゥ監督が表現させる、各々の孤独感と苦悩。
人生の悲惨さの中で見せる心理描写には舌を巻く。
俳優陣の選択(目利き)にも長けている。
深みの増したショーン・ペンがよかった。
涙でぐしゃぐしゃになりながら、自暴自棄になるナオミ・ワッツもよかった。

人は誰のために生きるのか。
その人の分まで生き長らえたら幸せになれるというのか。
助かる分、傷つくことも多い。
とても哀しい。


クラッシュ 2004年 アメリカ

2007-04-20 | ヒューマン・ドラマ
人は見かけなのだろうか?
パッと見、見かけで判断してしまうというのは、人間であるが故の愚かな心裏反応である。
しかし否定もできない。
「人は見た目が9割」なんて言われるのが実状だ。
わからないでもないが、決め付ける側、決め付けられる側、双方ともそうした観念でいたら悲しくないだろうか。

「あんなヤツにどう思われようと構わない」と思う一方で、「あの人には本当の自分をわかってもらいたい」と願ったことは誰にでもあるだろう。
願ったり思ったり、テレパシーでも使えたら、さぞ人間関係の煩わしさも解消されたりするだろうが、我々人間には、そのようなパワーは微弱である。

肌の色や国籍で考えたことはあるだろうか?
欧米ではよくあること。
あちらで生活をしたことのある人なら、やんわりとでも差別された経験をもっているかもしれない。
人種差別主義者というのも少なくないのである。
悲しいが、これも現実。

本作品で言っているように、人はぶつかり合わなければわからない。
心の底から、本気でぶつからなければ。
だって人間なんだもの。
肌の色が何?
見かけがどうだって?
同じ人間でしょ?
ぶつかっていってわかること、始まること、たくさんあるでしょ?

ぶつかっていきもしないで平然とわかったような顔をしてる者は、実は何もわかってはいない・・・
あの若い警官のように。