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アブリコのCinema散策

のんびり映画でも観ませんか

永遠のアフリカ 2000年 アメリカ

2010-08-21 | ドラマ
人生をやり直す目的で、いま在る場所からあえて遠い地へ移ろうとすることは、生半可な気持ちではできないだろう。
かねてからアフリカへ行ってみたいと考えていたクーキーは、恋人パウロの勧めもあって、息子のエマと共にアフリカへの移住を決意する。
北イタリアから、自然と共存する大地へと居を移すことは想像以上のものであろうが、彼女はそれを受け入れた。

環境を変えたからといって、全てがプラスになるとは限らない。
アフリカでは苛酷な運命がクーキーを待っていたのである。
夫のわがままも、象牙目的の密猟の実態や、家が倒壊しそうなほどの凄まじい砂嵐も辛いものだった。
しかし、彼女にとっての最も厳しく深い悲しみは、夫と最愛の息子の死であって・・・。

アフリカに来ていなければ、こうした事態にはならなかったのか。
「もし・・・こうしていたら」と、人は思う。
だが、これは彼女自身が選んだ道でもある。
彼女は、母親や友人から「イタリアへ帰ってくればいい」と再三言われたが、二人が眠るこの地を離れる気はなかった。
それに、夫パウロの忘れ形見である小さな娘もいる。
彼女の意志は強かった。
その後クーキーは、自然保護論者となり、アフリカに住み続けたそうである。

キム・ベイシンガーとヴァンサン・ペレーズの共演ということで、かつてのセクシー俳優同士だから、何かある?と期待はしてみたものの、やはり「かつて」の言葉が正しいように、特にこれといったスペシャルシーンはありませんでした(笑)。
ヴァンサンも過去に、カトリーヌ・ドヌーブやイザベル・アジャーニといった熟女を相手に奮闘しとりましたが、今回はずいぶんあっさりとした味付けになっていた模様であります。

アンナとロッテ 2002年 オランダ・ルクセンブルク

2010-07-23 | ドラマ
姉のアンナと妹のロッテは大の仲良しで、いつも一緒だった。
だが両親の死によって、この双子の姉妹は、不幸にも引き裂かれてしまうこととなる。
二人にとって、それは非情な別れであった。

アンナはドイツ、バイエルン地方の貧しい農家に、一方結核にかかっていたロッテは、オランダの裕福な家庭へとそれぞれ養子として引取られる。
アンナは養父母から愛情のかけらも示されず、ひどい仕打ちを受けながらも気丈に生きる。
ロッテは温室育ち特有の娘に成長していく。
そんな中でも、二人はお互いのことを気にとめていた。

明暗を分けた姉妹の一生。
辛い中にも、一筋の光が射したときがアンナにはあった。
オーストリアから徴兵されてきたマルティンとの出会い。
やがて二人は結婚するのだが・・・。
ロッテも結婚を約束したダヴィッドと幸せのさなかにいたが、ユダヤ人であるダヴィッドは、ナチにより拘束されてしまう。

ロッテはアンナを許さなかった。
アンナがナチの将校と結婚したと思い込み、「ダヴィッドは“あなたたち”に殺された」と憤る。
二度と姉とは口を利かないと。
アンナが、「肉親はロッテしかいないの!」と叫んでも、彼女の怒りは収まらない。
ロッテは人の痛みもわからない、自分のことしか頭にない女性になってしまっていたのであった。

時は過ぎ、高齢になった二人は再会する。
アンナはどうしてもロッテの誤解を解きたいと、彼女の居場所を探したらしい。
ロッテはこの年になっても、頑固なばあさまでいた。

この映画を振り返ってみる。
中盤近くまで、二人のそれぞれの生き方が、緊迫した場面も含め、大河ドラマのような趣さえあったのに、終盤はどうもコメディー映画に出てくるようなばあさま二人という演出になってしまって、まったく感動できなった。
実にもったいないことである。
アカデミーの外国語映画賞を逃したのも、終盤の二人のやりとりが失敗だったのではなかろうか。

ミリオンズ 2004年 イギリス・アメリカ

2010-03-29 | ドラマ
庶民が突然大金を手にしたら、喜びよりも、「どうしようか・・・」と困惑が先にくるものかもしれない。
資産がどれほどあるかわからないほどの元々のお金持ちの人は、“大金”と聞いても小銭くらいの感覚しかないのかもしれないが。

英国は、経済通貨同盟(EMU)に参加する日が近づいていた。
ユーロ変換後は、今までのお札は全て紙くず同然。
当然のことながら、国民は換金、あるいは預金へと銀行へなだれ込む。
最終日ともなれば、どこの銀行も長蛇の列だ。
その中にダミアンたちもいた。

小学生の兄弟が、正確にいえば弟のダミアンが、突如空から降ってきたカバンに驚き、大量のポンド札の入った中身に更に驚く。
信仰心の強い弟は、これは神様がくれたお金だと信じ込む。
そしてこれは、恵まれない貧しい人たちに分け与えるべきなのだと考えるのであった。

欲と純真さを子どもの目線からよく映し出していた。
金は人を狂わすともいうが、使い方はよおく計画を立ててからでないと(某CMみたいだ)、恐ろしい事態にだってなりうるわけで、パァーッと派手に使ってしまおうというのも、やや勇気のいることだろう。

よく手にしたものの一部は、幾らかなりでも寄付や何かに貢献するといったかたちで、有難みのおすそ分けをしたほうが良いと聞く。
全額そうする自信はなくとも(汗)、そうしたことで、見えない運命的な循環がよくなるのではなかろうか。
それを偽善だとか美談ととるかは自由だが。

サイドウェイ 2004年 アメリカ

2010-03-11 | ドラマ
〈人生の寄り道〉
ややくたびれかかってきた頃、ちょっと寄り道をしたくなってくる。
今まで一所懸命に走ってきたんだから、ここらでちょっとね、息抜きもしたくなってくるってもんでしょう。
「いやあ、寄り道どころか、回り道ばっかりでねぇ」なんて言ってる人もいるようないないような・・・

あちらでは独身最後を締めくくるってんで、友人どもとハメを外す、“バチェラーパーティ”なるものがある。
何やってもいいという、後日談は決して聞かぬ、そういった暗黙の了解のもと成り立っているとはいえ、奥様になられる方々の心の広さには驚きます。
’00の『ベリー・バッド・ウェディング』のそれは、題名どおりベリー・バッドだったっけ(笑)。

人生の折り返し地点にさしかかり、ようやく身を固めることとなったジャック。
大学以来の友人マイルスは、彼のために一週間の日程を組んでやった。
ワイン好きもあって、マイルスは主にカリフォルニアのワイナリーを巡る予定を立てていた。
だがジャックはといえば、「俺はナンパをしたいんだ」

何事にも一途なマイルスと、あっちフラフラこっちフラフラのジャック。
性格も全く異なる二人だが、友情は深かった。
こんな奴でも友だちなんだよな。
お互いを解り合ってるからこその友情。
しかしだねぇ、ジャックの行いは、やっぱり目に余るよねぇ。

昨年、日本でリメイクされた作品でもある。
やはり日本人からみると、日本版『サイドウェイズ』のほうが面白いのかなぁ。
どうでしょう?

天然コケッコー 2007年 日本

2010-01-31 | ドラマ
くらもちふさこ原作のコミックを映画化。
こうしたコミックを映画化、もしくはTVドラマ化するのがここ数年で非常に増えたような気がする。
原作と異なった、映画独自の要素を組み込むことも多く、それ以上に実写版となると、本来の画(え)のイメージから遠ざかってしまう危険性もあり、観るものの心をつかめるかどうか、なかなか際どいところとなる。
ところがこの映画は、そんな心配をよそに、原作どおりの良さが詰め込まれていた。

コミック自体はかいつまんで読んだぐらいなのだが、それでもあの雰囲気は十分に伝わってくる。
のどかな分校での様子。
そよと広海の甘酸っぱいような恋。
さわやかな空。
ゆったりとした田園風景。
個人的に〈そっくりで賞〉をあげるとすれば、小学1年生のさっちゃんでしょう(笑)。
絵からひょっこり出てきたかのようで、とっても可愛かった。

現実的にみてしまえば、所詮はコミックの中の夢物語なのだけど。
偶然にも、そよと同い年の男子で、しかもカッコよくて、そのうえ性格もよろしくて、そんな子が転校してきて、中3の修学旅行は二人きりの東京見物(二人きりといっても、もちろん引率の先生はいる)。
仲良く手をつないで歩いてたって、先生はニコニコしてなーんにも言わない。
普通なら、「手なんかつなぐんじゃなーい!」って、怒られちゃうけど。
なんかもう、先生といっても家族旅行みたいなんだよね。
分校の生徒たち(小、中学生合わせて7名)も、みんなきょうだいみたいだし。

雑踏の中の生活よりは、はるかに幸せだろうな。
観ていて、本当にうらやましくなった。

イージー・ライダー ’69 アメリカ

2009-12-02 | ドラマ
休日に車を走らせていると、たまに〈イージー・ライダー〉風のバイカーを見かけることがある。
あの独特なバイクにまたがり、顔とほぼ同等の高さにあるハンドルを、まるで鉄棒でもするかのようにひしっとつかみ、まっすぐ前を見据え、豪快に走り去っていく。
自慢のマシンに周りの視線が注がれ、更に気分も高まってくる。
第2、第3(!)の青春を謳歌できるのはうらやましい限りだ。

さて、バイクはひとたび置いといて本作品についてだが、こんなひどい話ってあるだろうか。
これが自由の国アメリカなのか。
どこでも“よそ者”を嫌うふしはあろうが、こうも自分たちとは違う“人種”とだといわんばかり、いや、人間とも見ない田舎町で、彼らを排除しようとする行動は、いくらなんでも理解できない。
保安官までもが、見て見ぬふりだ。
ビリーは言った。
「昔はこんなんじゃなかった・・・」

ビリーとワイアットが、コールガールたちと墓地でトリップする場面。
サイケデリックな映像が突出していて、何かのプロモーション・ビデオみたいだったし、つなぎ用に映し出されるちょっとした風景も、短い詩を読むような感じで、デニス・ホッパーの才覚に触れることのできる作品である。

トリップで思い出すが、’65頃、ピーター・フォンダはLSDにハマっていたらしく、そのシーンを見ていて、もしや“地”で演ってたのかなぁ、などと勘ぐってしまった。
彼はやっぱり御坊ちゃま風だけど、実際のところは放蕩息子だったんでしょう。
お父さんとは全然違いますもんねぇ。

この映画で個人的に一番お得感が高かったのは、まだ無名の頃のジャック・ニコルソンに出会えたことだろうな。
あの酔いどれ弁護士。
いかにも、ニコルソン向きのキャラであった。

十二人の怒れる男 ’57 アメリカ

2009-11-25 | ドラマ
裁判員制度が始まって、半年余りが経つ。
新聞記事やニュース等から、裁判員になった方たちがかなりのエネルギーを要したことが分かる。
人を裁くことの難しさ。
それは実際に経験してみないと、なかなか実感がわかないかもしれない。

本作品は名作の一つに数えられているが、それに異存はないだろう。
陪審員たちの討論だけという中身を、これほど緊迫したドラマにしてしまったシドニー・ルメット監督の非凡な才能には驚く。
故黒澤明監督が、イランのキアロスタミ監督のデビュー作品を観て、「天才は最初から天才だ」と語ったそうだが、ルメット監督にとって、この映画はデビュー作である。

父親殺しの容疑者である少年に対し、ほぼ全員が有罪としていた。
12人中1人だけ、無罪を主張。
「その殺人には疑問が残る。 うやむやなまま少年を電気イスに送るわけにはいかない」
評決は、全員一致でなくてはならない。
無罪をとおす陪審員以外は、当然納得がいかない。
「なぜだ! 証人も言ってるじゃあないか、殺すところを見たと!」

偏見、思い込み、決めつけ、これらを払拭し、時に証人の心理まで洞察しなければならない。
状況をひとつひとつ丹念に把握し、証言を聞き逃してはいけない。
相当な集中力と判断力が必要となるだろう。

’96の『評決のとき』も、とてもよく出来た映画だと思うが、終盤で陪審員による偏見が覆されるシーンは溜飲が下がる思いであった。
ここでは、弁護士の手腕が見事に描かれていた。

容疑者の少年の弁護士は、法廷ではいささか投げやりな態度であったらしかった。
1人の陪審員が説いた“可能性”が、他の11人の意志を変えさせた。
その力は、弁護士以上のものがあったように思う。
      

ファーストフード・ネイション 2006年 アメリカ・イギリス

2009-11-05 | ドラマ
食の安全が問われる昨今、一体何を信じたらいいのか判らなくなってくる。
店内や外装に表示されていることに頼らざるを得ないのだろうが、食の偽装は今では珍しいことではない。
以前にもあったであろう確率は高そうだが、単に発覚しなかっただけかもしれない。
となれば、今までの偽装事件は氷山の一角なのか。
心配される中、我々は毎日、いつものように食事をとっている。

この映画のターゲットは、ずばり、ファストフードの裏側なんだが、ハンバーガー業界を完全に敵にまわしている趣だ。
俗に“ジャンク・フード”と呼ばれるからどうだという類の話ではない。
ずさんな管理は、上層部の耳まで届かないでいる。
本作品は、そういった企業がまだまだあるであろうことに対する警鐘かもしれない。

メキシコから米国へ、、密入国する者たちは後をたたない。
危険を承知で、命がけで国境を渡る。
1ヶ月分を、アメリカでなら1日で稼げる現実が、彼らを立ち向かせる。
だいぶ前に、サンディエゴからティファナへ渡ったことがあるが、あの時ほど、国境の重みを感じたことはなかった。

彼らを待っているのは、大概きつい仕事である。
あらゆる問題を抱えている牛肉加工工場で、不慣れな手つきで仕事にあたる。
利益ばかり追求する企業は、“あらゆる問題”を抱えていようが、見て見ぬ振り、知っていて知らない素振りなのであった。

飽食の時代となった今、1日に何トンもの食材が捨てられている。
偽装も問題だが、食の廃棄も問題である。
せめて殺されていく牛さんたちのためにも、きちんとした加工で、有難く消費しなければ、それこそバチがあたりそうだ。

グーグーだって猫である 2008年 日本

2009-08-23 | ドラマ
この映画は、漫画家小島麻子先生の愛猫サバの死で始まる。
締め切りに追われ、三日間一睡もしていない麻子先生とアシスタントたち。
サバは、机に向かう麻子先生の背中を見つめながら、「さようなら」と呟く・・・。

これは、大島弓子氏のエッセイコミックをノベライズ版に書き替え、それを映像化したものである。
フィクションとノンフィクションが混ざり合ったような感じだが、個人的には、著者と愛猫たちの日常をユーモラスに描いたエッセイコミックのほうがよかったな。
ドキュメンタリーではないし、ニャンコに演じてもらうのは気が引けるし(苦笑)、だからそれはとても難しいこととは解っているのだが、やはりここはもっと忠実に、飼い主と猫との生活を見せてほしかった。

サバ(仏語“Ca va”からとったとは、映画で知りました。)がいなくなった喪失感から、麻子先生は仕事のぺースをぐんと落とした。
担当さんやアシさんたちも気が気ではない。
早く新しい作品を、と願っていた。
何もする気のない日々の中、彼女はペットショップで、グーグー(good good の意)と出会う。

人との出会いも縁だが、動物たちとのそれも、つくづく縁だと思う。
家族の一員として迎えたかれらとも、いつかは別れなくてはならないときが来る。
かつて、夏目漱石が愛猫の喪中ハガキを出したことに非難があったというエピソードを何かで読んだ。
たかがペットと思う人もいるだろうが、ながらく一緒に生活を共にしてきた者にとっては、深い深い想いがある。
仏教では、人と四つ足を同じお墓に入れることはタブーであるようだが、古代エジプトのお墓には、人と一緒に猫も葬られている。
それだけ大事にされていたのだろうな。
かれらへの想いはそれぞれかもしれないが、「家族」であることには変わりない。

映画の中でのグーグーも可愛かったけど、ちょっと絵葉書用のショットを集めたようなシーンが多すぎたように思うなぁ。
やはりね、エッセイコミックを読んで、グーグーたちと著者の家族愛に触れてみるのもよいのではないか、と思う。

ナイト・オン・ザ・プラネット ’91 アメリカ

2009-07-27 | ドラマ
異なる4つの国で同時に起こる、それぞれの土地でのタクシードライバーと客との関係。
アメリカのL.A.とN.Y。
フランスのパリ、イタリアのローマ。
そして、フィンランドのヘルシンキ。
短いエピソードの中で、そのお国柄(土地柄)らしい、深く、熱い人間模様が映し出されている。

何気に、谷川俊太郎氏の『朝のリレー』という詩を思ってみた。
これはナイトの真逆である朝がテーマであるが、時差をうまく表現していて、朝を迎える子どもたちの様子が微笑ましく、同時に、清々しい朝の情景が目に浮かんでくる。
この映画では、夜のとばりが、たそがれのL.A.から22時過ぎのN.Yへ。
次に、まだみんな寝静まっているパリとローマに。
そして、そろそろ朝陽が顔を出しそうなヘルシンキへと、バトンタッチされていく。

タクシーの運転手と美容師は、どちらかというとあまり喋らないでいてもらったほうが、個人的には好ましい。
結構話し好きな人は多いもので、そういうときは、やはり人として話には付き合わないと、である。

ローマのドライバーのように、機関銃みたいに喋り捲られたら、さすがに客のほうで降りたくなるだろうけど、案外話の続きを聞きたがる者も多かったりして(笑)。