なんだか閉店を告げるブログになってしまったようで悲しい。
けれど亜木人さんはまだ間に合います。
大事な日付のところが光ってしまいましたが、
今年の6/26をもって閉店とのことです。
私が通い始めたのが二十年くらい前のことでしょうか。
ここを通れば、必ずソーセージを購って札幌へ戻るのが
中山峠の大きな楽しみでした。
1年に一度か二度のことでありましたが、
本当に名残惜しいです。
私よりももっと多くの思い出をお持ちの方が、たくさんいらっしゃると思います。
そんな方達へのお知らせです。
なんだか閉店を告げるブログになってしまったようで悲しい。
けれど亜木人さんはまだ間に合います。
大事な日付のところが光ってしまいましたが、
今年の6/26をもって閉店とのことです。
私が通い始めたのが二十年くらい前のことでしょうか。
ここを通れば、必ずソーセージを購って札幌へ戻るのが
中山峠の大きな楽しみでした。
1年に一度か二度のことでありましたが、
本当に名残惜しいです。
私よりももっと多くの思い出をお持ちの方が、たくさんいらっしゃると思います。
そんな方達へのお知らせです。
長い引用になりますが、私が敬愛する内田樹さんは、
「私は10年前から「ネット上に公開した情報は公共物」という方針を貫いている。
コピーフリー、盗用フリーである。
繰り返し言うように、私がネット上に公開したテクストはどなたがどのような仕方で使われてもご自由である。」
と言ってくださっているので、以下に引用します。
学ぶ、という言葉の説明で、今私が一番しっくりするものです。
「学ぶ力が伸びる」ための第一の条件は、自分には「まだまだ学ばなければならないことがたくさんある」という「学び足りなさ」の自覚があること。無知の自覚といってもよい。これが第一です。
「私はもう知るべきことはみな知っているので、これ以上学ぶことはない」と思っている人には「学ぶ力」がありません。こう人が、本来の意味での「学力がな い人」だとわたしは思います。ものごとに興味や関心を示さず、人の話に耳を傾けないような人は、どんなに社会的な地位が高くても、有名な人であっても「学 力のない人」です。
第二の条件は、教えてくれる「師(先生)」を自ら見つけようとすること。
学ぶべきことがあるのはわかっているのだけれど、だれに教わったらいいのかわからない、という人は残念ながら「学力がない」人です。いくら意欲があっても、これができないと学びは始まりません。
ここでいう「師」とは、別に学校の先生である必要はありません。書物を読んで、「あ、この人を師匠と呼ぼう」と思って、会ったことのない人を「師」に見 立てることも可能です(だから、会っても言葉が通じない外国の人だって、亡くなった人だって、「師」にしていいのです)。街行く人の中に、ふとそのたたず まいに「何か光るもの」があると思われた人を、瞬間的に「師」に見立てて、その人から学ぶということでももちろん構いません。生きて暮らしていれば、至る 所に師あり、ということになります。ただし、そのためには日頃からいつもアンテナの感度を上げて、「師を求めるセンサー」を機能させていることが必要で す。
第三の条件、それは「教えてくれる人を『その気』にさせること」です。
こちらには学ぶ気がある。師には「教えるべき何か」があるとします。条件が二つ揃いました。しかし、それだけでは学びは起動しません。もう一つ、師が「教える気」になる必要があります。
昔から、師弟関係を描いた物語には、必ず「入門」をめぐるエピソードがあります。何か(武芸の奥義など)を学びたいと思っていた者が、達人に弟子入りし ようとするのですが、「だめだ」とすげなく断られる。それでもあきらめずについていって、様々な試練の末に、それでもどうしても教わりたいという気持ちが 本気であるということが伝わると、「しかたがない。弟子にしてやろう」ということになる。そのような話は数多くあります。
では、どのようにしたら人は「大切なことを教えてもいい」という気になるのでしょう。
例えば「先生、これだけ払うから、その分教えてください」といって札束を積み上げるような者は、ふつう弟子にしてもらえません。師を利益誘導したり、お だてたりしてもだめです。だいたい、金銭で態度が変わったり、ちやほやされると舞い上がったりするような人間は「師」として尊敬する気にこちらの方がなれ ません。
師を教える気にさせるのは、「お願いします」という弟子のまっすぐな気持ち、師を見上げる真剣なまなざしだけです。これはあらゆる「弟子入り物語」に共 通するパターンです。このとき、弟子の側の才能や経験などは、問題になりません。なまじ経験があって、「わたしはこのようなことを、こういうふうな方法で 習いたい」というような注文を師に向かってつけるようなことをしたら、これもやはり弟子にはしてもらえません。それよりは、真っ白な状態がいい。まだ何も 書いてないところに、白い紙に黒々と墨のあとを残すように、どんなこともどんどん吸収するような、学ぶ側の「無垢さ」、師の教えることはなんでも吸収しま すという「開放性」、それが「師をその気にさせる」ための力であり、弟子の構えです。たとえ、書物の中の実際に会うことができない師に対しても、この関係 は同様です。同じ本を読んでいても、教えてもらえる人と、もらえない人がいるのです。
「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、この三つです。繰り返します。
第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。数値で表せる成績や点数 などの問題ではなく、たったこれだけの言葉。これがわたしの考える「学力」です。このセンテンスを素直に、はっきりと口に出せる人は、もうその段階で「学 力のある人」です。
逆に、どれほど知識があろうと、技術があろうと、このひとことを口にできない人は「学力がない人」です。それは英語ができないとか、数式を知らないと か、そういうことではありません。「学びたいのです。先生、教えてください。」という簡単な言葉を口にしようとしない。その言葉を口にすると、とても「損 をした」ような気分になるので、できることなら、一生そんな台詞は言わずに済ませたい。だれかにものを頼むなんて「借り」ができるみたいで嫌だ。そういう ふうに思う自分を「プライドが高い」とか「気骨がある」と思っている。それが「学力低下」という事態の本質だろうとわたしは思っています。
自分の「学ぶ力」をどう伸ばすか、その答えはもうお示ししました。みなさんの健闘を祈ります。
我が目を疑う に こんなぴったりのシチュエーションがあったとは。
まさかの閉店のお知らせです。
お名残おしゅうございます。
これからはプルプルに伺いますね、村上さん。
思えば、村上さんとはじめて会ったのも
こまめちゃんの紹介だったな。
あれはいったい何年前になるんだろう。