礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

東大前古本街は残ったが、早稲田は全滅

2017-06-20 08:41:21 | コラムと名言

◎東大前古本街は残ったが、早稲田は全滅

 昨日の続きである。『日本古書通信』通巻504号(一九七一年七月一五日)から、太田臨一郎のエッセイ「古書展覚え書(下)」を紹介している。本日は、その二回目。昨日、紹介した部分のあと、数段落分を【中略】し、そのあとの段落から、紹介する。

 日華事変から太平洋戦争に突入して、他の商売同様、古本屋さんの受難の日が続いた。十五年〔一九四〇〕の十二月に政府は古書籍公定価格を定めて翌年三月二十六日から実施、十八年〔一九四三〕からは和本、明治物も価格統制で縛つた。同じ刊年の本でも保存の良否、旧所蔵者の経歴、書き入れの有無によつて価値に上下のある古書に一率の価格を押し付けたのだから乱暴な話。十五年には物価上昇をあおるとの理由で百貨店での即売展を禁止する。十七年〔一九四二〕に東京古書籍商業組合や、終には古書統制組合まで組織させて情報局の統制の下にしめつけた。戦後アメリカ当局の発表によると日本に対する勝因として、原爆より神経戦の成功を挙げていた。国民の健全な思考力を培う〈ツチカウ〉基を提供する古書籍業を盲滅法界に圧迫した東条暴政の跡を顧みると憮然たるものがある。店員は応召する。店主も応召か徴用をうける。店は次第に焼失する。それでも空襲下に本を漁る〈アサル〉客もあり、大八車〈ダイハチグルマ〉に一杯本を積んで疎開する途中、気が変つてそのまま焼け残つた本屋に売つてしまつた客もあつた。古書展や市〈イチ〉も細々と開かれていたが、二十年〔一九四五〕三月古典会の市など、空襲がしばしばあつて三人か四人しか来なかつたこともあり、親しまれていた青展も十九年〔一九四四〕の七月第六十九回で終りとなつた。
 戦争が済んでみると、東京の古本街は、アメリカ軍が東大の爆撃を避けたおかげで、東大前が残つたほかは、早稲田は全滅、三崎町通りも殆ど全滅、神保通りは九段に向つて左側〔南側〕は助かつたが、右側がやられた。
 しかし「野火焼けども尽きず、春風吹いてまた生ず」で、二十年の十月には早くも組合は大市を開いたし、弘文荘、浅倉屋、松村書店、進省堂、明治堂、山本書店、誠心堂を同人とする新興古書会は十二月二十六、七両日、西神田俱楽部で復興第一回の新興古書展を開催した。案内に
 希ふ所は新しい平和的な文化の建設と古い正しい伝統の護持にいささかでも協力貢献したい念願でございます。
とある。出品略目の表紙に古本買入の案内があるのは、十一月にマル公は廃止されたとはいえ、品不足に難んで〈ナヤンデ〉いる状況を語つている。この会は、当然、読書人に歓迎されて盛会であつた。
 しかし一般的にいつて二十年中は古書街は虚脱状態であつた。二十一年〔一九四六〕の新円切替以後でも、品不足で、売つてしまうと後が続かなくなるから「交換本」の棚を設けたところもあり、むしろ店頭より露店の方が売れて雨後の筍のようにできた諸方のマーケツトに進出した。ハモニカ長屋の異名も名高い新宿のマーケツトには大東京書房が店を出したが、マーケツト主の尾津組の親分〔尾津喜之助〕が読書家で堅い本が好きなので、いい場所に代えてくれたというエピソードがある。
 商品不足の百貨店と店を焼かれた本屋とが歩み寄つて、三越、高島屋、白木屋、伊勢丹、東横、上野松坂屋と各デパートに古書部ができたが、商品が出廻るにつれて場所をとる割にマージンの少い古本は敬遠されて二十五年〔一九五〇〕ごろまでには松坂屋を除いて皆止めてしまつた。松坂屋は八木書店がやつていたのだが、神田に店が出来てからも三十一年〔一九五六〕末まで本誌〔日本古書通信〕事務所は継続していた。
 二十一年〔一九四六〕十一月に東京古典会が白木屋でやつた古典復興祭記念即売展は、戦後最初の大規模な会であつた。趣味の古書展も伊勢丹で第一回を開いた。新興古書展は猿楽町の三輪〔信太郎〕邸、高島屋、伊勢丹、白木屋、松坂屋と転々とした。古書展としては成績がよかつたが、百貨店側は現金なもので、他の売場が充実してくると古本は割が悪いと敬遠し勝ちになる。趣味の古書展が伊勢丹を追われて古書会館でやることにしてから、「良書で値段で気魄で行く」と号した「ぐろりあ展」その他がつづき、現在は、毎月定日に古書会館に行けば何かしら古書展があることになつて、まずはめでたい。
 大阪は殆ど全部の店が罹災したが、終戦の翌日、天牛書店が逸早く難波橋に開店したのを始めとしてしだいに復興した。素人本屋が抬頭したのも東京と同じである。古書展は、二十二年〔一九四七〕、高麗橋の高島屋で杉本梁江堂や、中尾松泉堂が和本を主とする会を催し、古書部を置いた大丸がオール大阪展、十合〈ソゴウ〉がオール京阪展を恒例とし、山内神斧〈ヤマウチ・シンプ〉の梅田書房を置いた阪急でも同書房主催の古書即売会を数回開いた。一体に大阪の古書展は東京より回数が少いから、一回の出品点数は多く、従つて東京より盛況を呈したようである。
 京都では二十一年十一月の丸物と二十二年三月大丸での会が、名古屋では二十二年八月松坂屋古書部主催の古書即売大展覧会が、早い方であつたろう。東京では二十二年二月、明治古典会主催で上野松坂屋を会場とした明治大正文学書大即売会は特別展観として同区内の子規庵所蔵の子規居士の遺稿や遺著を陳列した。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2017・6・20(6・8位に珍しいものが入っています)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

荻窪古書展と柳田國男

2017-06-19 06:16:58 | コラムと名言

◎荻窪古書展と柳田國男

 先日、古書展で、『日本古書通信』通巻504号(一九七一年七月一五日)を入手した。その二~五ページにあった、「古書展覚え書(下)」というエッセイが興味深かった。筆者の太田臨一郎については詳しくないが、服装史の研究家であり、蒐書家としても知られていたらしい。
 本日は、「古書展覚え書(下)」の一部を紹介してみたい。

  古書展覚え書(下)  太田臨一郎

【前略】
 古本祭というものを挙行したのも、大阪が先馳けている。たしか昭和十年〔一九三五〕に始めたので、十一年〔一九三六〕六月、第二回を朝日会館で挙行したときに藤堂卓大阪古書籍商組合長の読み上げた祭文を抄録すると、
 抑モ〈そもそも〉神代ノ昔出雲ニ於ケル八雲立ツノ歌ヨリ起リ和歌三神ノ御出現アリテ益々降盛ヲ極メタル敷島ノ道ハ実ニ我国ニ於ケル文学ノ濫觴〈らんしょう〉トシテ三十一文字〈みそひともじ〉ヨリ天地宇宙ノ玄妙ヲ吟味シ得べキハ万国無比ト称セラレ他ニ類ヲ見サル神徳ナリト謂フへシ茲ニ深ク鑑ルトコロアリ同業者相集ヒ〈つどい〉現下思想ノ推移ヲ大観シテ思想善導ノ資ニ供シ祭神ノ偉徳ヲ発揚シ恭シク〈うやうやしく〉古本祭ヲ営ミ文化ノ進展ニ加護アラシコトヲ熱祷〈ねっとう〉シテ已マサル〈やまざる〉也
とある。土地柄、和歌三神を祭神としたからで、和歌三神が古本の神様とは少しおかしいが、そうかといって適当な神様も思い付かない。この時は、三日間即売会をやり、組合員四十八店の出品点数一万二千点、約五千人の入場者があり、出来高は約四千円であった。
 東京でも大正時代に古本祭の声はあつたが、実現せず、大正十四年〔一九二五〕九月十八日に東京古書籍商組合が、芝増上寺で組合創立以前からその時までの物故者二百余名の法要を営んだことがあつた。
「祭」としては、戦後の二十六年〔一九五一〕六月九日、東京都古書籍商業協同組合第三支部すなわち中央線古書会が、作家クラブ、捕物作家クラブ、二十七日会、カルヴアドスの会、東京温古会、東京都古書組合の後援の下に、荻窪高校で古書文化祭を開催した。戦後だけに祭神はなく、石黒敬七ダンナが司会をつとめ、徳川夢声、野村胡堂、亀井勝一郎、野田宇太郎の諸氏の講演があり、詩人野田氏は「古書の詩」を朗読した。翌十日、会場で即売会を行つたが、これが、現在繁栄している荻窪古書展、高円寺の中央線沿線古書展の起原と考えられるとすれば、お祭りのご利益いやちこ〔灼然〕なりというべしだ。一体中央線の沿線には知識人が多く古書店にはまた左翼くずれと覚しき人もいる(若い主人が、幼児をあやすのに「インターナショナル」をハミングしているので、流石〈さすが〉中央線の本屋さんだな、と感嘆したことがある)ので学術書も出るし、学会雑誌の端本〈ハホン〉などもよく出るのが、この両古書展の魅力になつているので、その道の知名な学者の御顔もチラホラ見える。学校の食堂で、戦争中からよく柳田国男先生のお宅へ通つて〈カヨッテ〉いた佐藤朔教授に、先生の近況を伺うと、近ごろ大部弱つておられるので、御宅へ行つても玄関で要談を済ませて帰ることにしています、とのことだつたが、何とその二三日後に荻窪の会場で、白足袋も清楚なお姿をお見掛けして、先生御健在なりと安心したことがあつた。【以下、次回】

 荻窪古書展というのは、荻窪古物会館を会場にして開催されていた古書展のことである。一九五一年六月九日の古書文化祭の翌日に開催された即売会というのも、たぶん、荻窪古物会館を会場にしたものだったのだろう。
 また、上記に、「現在繁栄している荻窪古書展、高円寺の中央線沿線古書展」とある。この文章が書かれた時点では、荻窪古物会館を会場にした荻窪古書展と、高円寺の古書会館を会場とした中央線沿線古書展とが併存していたかのように読める。しかし、このあたりの事実関係は、このエッセイを読んだだけでは、十分に把握できない。

*このブログの人気記事 2017・6・19(5・6位にきわめて珍しいものが)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蒙古人と日本人は祖先が同じかも知れないなあ

2017-06-18 04:30:30 | コラムと名言

◎蒙古人と日本人は祖先が同じかも知れないなあ

 服部四郎著『蒙古とその言語』(湯川弘文社、一九四三)から、「新バルガ蒙古人のタブー」という文章を紹介している。本日は、その三回目(最後)。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 最後に、右の調査を行つた際の挿話を是非とも記して置かなければならない。私のホロンバイルにおける経験よりすると一体に蒙古人は日本人と同様疑ひ深い。新バルガ人は特にその傾向が著しいやうに思ふ。ここには細説できないけれども疑ひ深さの質【しつ】や範囲までが日本人のに似てゐる。私がアモゴーロン・ハシャートに住み込んだ時も、旗長からの命令といふので表面だけは一通りの世話をして呉れたけれども、何か探りに来てゐるのではないかといふ様な眼で彼らが見てゐるらしいことは、事毎〈コトゴト〉に感ぜられた。さういふ状態は同じ室に住む様になつてからでも、凡そ一月か一月半は続いたであらう。併しブド氏は、例の炯眼から、私の目的が学問的研究以外の何物でもない事を十分諒解するにいたつた。それにはほかにも動機があつたが、このタブーの調査も大いに助力したことは疑〈ウタガイ〉ない。右に記載した諸事実は、ブド氏自らが進んで、ドンドン話して呉れたものでは決してない。一体同地における滞在は、いろんな虫に食はれたり、食物の点で苦んだり、恐ろしく寒い室に住みながら風邪を引いたり、肉体的な苦痛は中々軽少ではなかつたが、学問的収獲が多かつたので、実に楽しく暮した。永い夜を、太い一本の?燭を真中にして差向ひながら、ブド氏と毎夜々々四方山話に耽つた思出は、恐らく私の一生の中で、最も楽しいものの一つであらう。私がタブーに関するきつかけを握つたのも、かうして話し合つてゐる或晩のことであつた。何の話の序〈ツイデ〉であつたか、子供の時母に始終いひ聞かされてゐた「湯に水をさすのはよいが、水に湯をさしてはいけない」といふことを話したら、ブド氏が、それは面白い、私の方でも水に牛乳をさすのはいいが、牛乳に水を注いではいけない〔16参照〕といひだした。御飯を食べ始める時には必ず汁物を一口吸はなければならないといふと、「私の方でもうどんを食べる時には……」(21参照)などといつて、奇妙な一致を二人して面白がつたのであつた。但し注意すべきは、初〈ハジメ〉の内は、決してブド氏自身がいひ出さなかつたことである。いつも「それから、……それから、……」と私の話を最後まで聞いてから、自分のを持出す。かういふ風にして、私の話が決して出鱈目でないことを確認しただけに、このことに対する氏の信用の厚さは大したものであつた。また私の郷里の風習やタブーで、右に記したものに似たものがかなりあるのも、この上もなく興味のある事である。これによつてブド氏は学問の面白さといふものを(その理解が正しいとはいへないにせよ)深い感銘を以て理解した。のみならず日本民族に対する特殊の親愛さを威じ始めたやうであつた。私が以前に、日本語と蒙古語は語順が非常に似てゐる、ロシヤ語や支那語はさうでないのになどといふと、宣伝でもしてゐるのではないかといふ顔つきで、まともに傾聴しては呉れなかつたのに、今度は自分から、本当に腹の底から出るしみじみした調子で、蒙古人と日本人は祖先が同じかも知れないなあ、などといふ様になつた。ブド氏は、新知識を得るために旗から派遣されて、新京に数箇月住んだことがあり、日本語もほんの少しではあるが知ってゐたのであるが、新京に住んでゐた時のことを思ひ出して、支那の婦人は全然違ふのに、日本の婦人の中には 蒙古婦人に似たものが中々多く、もし蒙古の服裝をしてこの早原で遇つたら、蒙古婦人としか考へられないであらう様な人に度々会つたなどといふ感想を洩したりするやうになつた。かくして私は同地において一層愉快に生活し、一層多くの研究の便宜を得るやうになつたのである。右の諸事実はそのまま聞き流して了ふのが惜しく思はれたので、途中からノートに書き留めた。【以下略】

 今日、日本の大相撲には、モンゴル出身の力士がたくさんいる。みな、日本語も達者である。そうした力士に対して、モンゴルの風習と日本の風習とで、「近い」と感じたものはあるか、それは何か、などと質問したジャーナリストや学者があったのだろうか。これは、是非、どなたかに試みていただきたいものである。

*このブログの人気記事 2017・6・18(7・9位にかなり珍しいものが)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牛乳に水を注ぐことは絶対にならぬ

2017-06-17 04:54:16 | コラムと名言

◎牛乳に水を注ぐことは絶対にならぬ

 昨日の続きである。服部四郎著『蒙古とその言語』(湯川弘文社、一九四三)から、「新バルガ蒙古人のタブー」という文章を紹介している。本日は、その二回目。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 異民族に接する必要のある者は、その仕事の性質を問はず彼らの風習に関する詳細にして正確な知識と温い〈アタタカイ〉同情とを有しないと、知らず識らずの内に反感を買つて、思はぬ失敗を招く事があらう。私どもでも、風習の違ひと承知して居ながらも、異民族に接する時に、多少の不快の念が起るのを禁じ得ないことがある。ましてや自分らの習慣を唯一の正しいものと信じてゐる蒙古人のやうな素朴な民族に対し、私どもは気づかずにどれほど不愉快なふるまひをしてゐるかわからない。況や〈イワンヤ〉タブーの程度のものにいたつては一層注意を要する。これを研究対象とする民俗学者にとつてとは別の意味において、私ども言語学者にとつても、タブーの研究が必要であることは明かである。
 以下に、アモゴーロン・ハシャート滞在中、右のブド〔Büd〕氏から知り得た新バルガ人のタブーや風習を、一定の順序なく列挙しよう。勿識これで以てその全部を挙げ尽したものではなく、恐らくは何十分の一にも足りないものであらう。なほ注意すベきは禁じられてゐる理由は大抵単にnügelti 《禍がある。縁起が悪い。私の郷里三重県亀山町の方言で「験【げん】が悪い」「げまんが悪い」などいふのが当るか。》の一語によつていひあらはされる事が多い。
 1、食事を終つた時、茶・水などで口を嗽ぎ〈スシギ〉吐き出してはならない。

【以下、2から32まで、タブーが列挙されているが、ここでは、その一部のみを引用する】

 4、家(=包【パオ】)の中で口笛を吹くな。ただし、外ではかまはない。
 8、日本式に坐つたり、うづくまつたりしてはならない。礼儀正しく坐には必ず一方を立膝しなければならない(目上の者の前では特に然り)。
 9、女はあぐら(日本式)を絶対にかく可からず。片膝立てるか横なほりする(日本式に坐ることもならぬ)。
 10、男はあぐらをかいてもよい。ただし老人目上の者の前ではいけない。
 12、飲食物が残つても絶対に地面に棄ててはならぬ(日本人が棄てるのを屡々目撃して不愉快に感じたといふ)。犬の椀に入れてやるのはいい。
 14、紙、木片などに火をつけて持つてゐてはならぬ。
 16、牛乳のある上へ水・茶(後者はやや寛)を注ぐことは絶対にならぬ。ただし、水に牛乳を注ぐことは極めて正当である。
 17、人を跨ぐべからず。
 19、小刀を人に渡す時、刃を相手に向けてはならぬ。
 20、刃物を刃を上にして置くべからず。
 21、うどん(その他汁ある食物)の類をいきなり箸で挟んで食べてはならぬ。必ず汁を少し口につける。その後ならば、うどん許り〈バカリ〉先に食べて了つて後で汁だけ飲んでもさしつかへない。
 22、骨の類を食事中に投げてはならぬ。溜めて〈タメテ〉置く。
 23、机の塵を拭ひ取るのは自分の方へ。
 24、人に向つて菷〈ホウキ〉で掃いてはならぬ。
 25、人の与へたものを箸ではさんだり、人差指と中指で挟んで取つてはならぬ。ての平掌で受けるがよい。置いてあるものは親指と人差指で取つてもよい。
 27、二人で各々小刀を持つてゐて、片手どうしで取換へてはいけない。両手を用ゐて受取つてから、自分のを渡す。
 28、砥石を手渡してはならぬ。一度置いてそれを受取らすべきである。
 29、櫛を人に投げて渡すと母が死ぬ。
 30、手を腰の後へ組んではならぬ。父親が死ぬ。

【以下は、32まで、タブーを列挙したあとの文章】

 東新巴旗(それが更に四つの旗に分れる)の中でも旗によつて多少づつつ風習が違ふやうであるが、右のブド氏から得た材料は氏の属する正白旗を代表してゐるものと見て大体さしつかへなささうである。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2017・6・17(3・7・8位にやや珍しいものが)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蒙古人に「こうだろう」と質問してはいけない

2017-06-16 01:10:21 | コラムと名言

◎蒙古人に「こうだろう」と質問してはいけない

 先日、古書展で服部四郎著『蒙古とその言語』(湯川弘文社、一九四三)という本を入手した。裸本、背表紙がコワレていて五五〇円は高いと思ったが、中味が面白そうだったので購入した。帰宅して調べてみて、ネット上では、かなり高額な古書価が付いていることを知った。
 服部四郎(一九〇八~一九九五)が、優れた言語学者であることは、よく知っていたが、その本や論文で読んだのは、『日本語の系統』(岩波書店、一九五九)ぐらいしかない。しかし、今回、『蒙古とその言語』を読んでみて、あらためて、この学者の力量に敬服させられた。学問的対象に向かう好奇心と迫力が、ナミ大抵ではない。文章が学者バナレしていて、高度な内容を、実に平易に、実にわかりやすく説いている。
 本日は、同書から、「新バルガ蒙古人のタブー」という章を紹介したい。発音記号は、極力、原文に従うよう努めたが、入力の関係で、一部、原文の通りでない場合がある。

  新バルガ蒙古人のタブー

 一昨年〔一九三五〕の夏より秋にかけて、満洲国興安北省海拉爾〈ハイラル〉の西南約四十里の地点、東新巴旗旗公署所在地アモゴーロン・ハシャートに住んで居た時の事である。同旗内に新巴爾虎【シンバルガ】方言と喀爾喀【ハルハ】方言とが共存する事を知つて、呼倫貝爾【ホロンバイル】蒙古語諸方言の言語地図作成を思ひ立つた。同地方には六種程の蒙古語系方言が行はれて居り、比較的少数の単語で以てそれら諸方言の特徴を把握できる様にと、語彙の選択にかなり苦心したのであるが、その中に次の如き点があつた。即ち、ブリヤート・新バルガ・陳バルガの諸方言では、古代蒙古語の語幹末尾音のs(細註を要するが略す)に対してdを有するが、ハルハ方言・オイロト方言ではsを有する。この点を調査するために、名詞としては.「布、綿布」を意味する単語を採用した。之はブリヤート方言等ではbüd或はそれに近い形で、ハルハ方言・オイロト方言ではbüs, bös或はそれに近い形であらはれる。この目的のために探用し得る単語は勿論外にも少くないが、特にこの単語を選んだ理由は次の様である。一体蒙古人に「之はかうだらう」等といつた形式で物を尋ねてはいけない。大部分の蒙古人は、事実とは無関係に、「さうだ」と答へるであらう。かういふ風に道を尋ねてひどい目に通つた事が二度ほどあつた。是非とも「これは何だ」「これは何といふ」「この道は何処へ行く」等と尋ねなければならない。これは日本語の方言調査に際しても、注意すべきことで、こちらの意見を押付けるやうな態度は何処においても絶対禁物であるが、社会的訓練によつて著しく服従的になつてゐる素朴な蒙古人から、その意見を尋ねんとするには、特に警戒を要するのである。かういふ理由によづて、指示しつつ「これはお前とこの土語で何といふか?」と質問し得るやうな単語をできるだけ選択したが、右の「布、綿布」を意味する単語を選んだのも、同じ理由によるのである。
 質問表ができてから、調査を始めたのは、同じくアモゴーロン・ハシャートの旗立小学校においてであつた。同小学校には旗内の方々から生徒が集まつてゐて、大部分は新バルガ方言を話すが、少数の者はハルハ方言を話して居た。さて生徒を一人々々促へて調査を進めて行くうちに、不思議な事にでくはした。ハルハ方言を話す者は私の質問に対してbüsなどと答へるが、新バルガ方言を話すものは、同方言ではbüdといふ事が調査を開始する以前に既に確めてあつたにも拘らず、さう答へるものがほとんどない。そのかはりに「物、財」などを意味する筈のedや、「品物」の意と思つてゐたbāraで返答する。念のためにbüdとともいふかと聞くと、例の調子で「ウン」といふ。中にはこの単語に対しては最初から、「いはない!」などとぶつきら棒の返事をする者もあつた。
 この疑問は、幸ひ同小学校滞在中に氷解した。同小学校には二人の先生があつて、一人はダグール人で満洲国語たる支那語を主として教へ、他の一人は校長格、新バルガ人で满洲文語と蒙古文語を教へてゐた。私はこの蒙古人の先生(即ち後者)と八月から十一月まで一室に起居を共にし、新バルガ蒙古人特有の風習や心理について極めて多くの知識を得る事ができた。洞察力の鋭い、日本式にいつても頭のいい当時二十五歳の青年であつた。彼より知り得た新バルガ人のタブーの中に「長上の名前は絶対に口にしない」といふのがあつた。これを耳にした時に私は思はず膝を打つた。この青年教師の名前がbüd だつたからである。後から思ひ出して見ると単語を調査して居る時に、あたりを見廻して誰も居ないのを見極めてから、büdと小声でいつて、悪い事でもしたやうにモヂモヂしてゐた子供があつた。随分罪なことをして単語を絞り出したものだと後悔した。
 このタブーは更に委しく〈クワシク〉調べて見ると次の様であつた。自分の父母、祖父母、伯叔父、伯叔母の名前は絶対に口にしない。兄の名前は間々呼ぶ者があるが、これも口にしない方がよい。公職にある者(学校に学ぶ事も公職である)は上役、先生の名前を呼ばない。それのみならずこれと同音の普通名詞も会話中に用ゐてはならない。その必要がある場合には、右の例の如く、これに近い意味の別の単語を用ゐる。(但し名前の第一音節の一部をとつて、bü bakʃi(ブー先生)などと呼ぶのは差支へない。)この禁を犯せば「幸福が減る」bujiŋ xorno といふ。ブリヤート人はロシヤの父称(otcestvo)の習慣がうつつて、蒙古字で署名するとき自分の名前の次に、父の名に「の」の意味の語尾をつけて書き、最後に姓を認める〈シタタメル〉。新パルガの羊(羊肉は蒙古人の主食物で、日本人の米に当るとさへいへる)のしつぽは太くておいしい脂肉が沢山ついてゐるが、ブリヤート人の羊の尾が細くて脂肉が全くないのは、新パルガ人に従ふと、父の名を平気で口にする天罰である。【以下、次回】

 非常に興味深い文章である。特に、“蒙古人に「之はかうだらう」等といつた形式で物を尋ねてはいけない。”(下線)という指摘に注目した。
 モンゴル人に対しては、「之はかうだらう」という形の質問は、避けなくてはならない。なぜか。それは、そういう尋ね方をすると、そうでないのに、「そう」という答が返ってきてしまうからである。
 服部は、「社会的訓練によつて著しく服従的になつてゐる素朴な蒙古人」という表現によって、こうした心意を説明しようとしている。しかし、「社会的訓練によつて著しく服従的になつてゐる」という部分は、意味がよく伝わらない。モンゴル人が、「かうだらう」という形の質問に対して、肯定的に答えてしまうのは、社会的訓練によって「服従的」になったからというより、彼らが単に、「素朴」だからではないのか。モンゴル人の間には、伝統的に、そういう「素朴な心意」が継承されてきたのではないか。
 ただ、こうした心意は、「長上の名前は絶対に口にしない」と、あい通じるものがある。「かうだらう」という形の質問に対して、肯定的に答えてしまうのは相手が長上である場合に限る、という限定がつくということもありうる。もし、そうだとすれば、この心意は、単に「素朴」な伝統というより、「服従的」な伝統と位置づけられるべきかもしれない。
 服部は、こうしたモンゴル人の心意に関わって、「これは日本語の方言調査に際しても、注意すべきこと」と指摘している。これまた、重要な指摘である。二十一世紀の今日はともかく、かつての日本人に、「かうだらう」という形の質問に対して、「そう」と答えてしまう、「素朴」な、ないし「服従的」な心意が存在したことは、十分にありうることだと思う。 

*このブログの人気記事 2017・6・16(3・5位に珍しいものが入っています)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする