礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

モリ・カケ問題と安倍首相の危機管理

2017-06-25 06:04:59 | コラムと名言

◎モリ・カケ問題と安倍首相の危機管理

 本年三月四日に、「安倍晋三首相と危機管理」というコラムを書き、三月一五日に、「今からできる安倍首相の危機管理」というコラムを書いた。
 その後、加計〈カケ〉学園問題が拡大し、「共謀罪」の強行採決があって、安倍内閣に対する支持率が急落した。また、インターネット、週刊誌などでは、安倍晋三首相の健康不安説が、おそらく意図的に流布されている。安部首相個人、および安倍内閣の「危機」はいまだに去っておらず、むしろ、これまで以上に深刻化していると言ってよい。
 では、この段階で、安倍首相が採りうる「危機管理対策」には、どんなものがあるか。
 ちなみに、三月一五日のコラムで私は、次の五項目を挙げた。

一 上久保誠人所長のような知識人をブレーンとして招き、アドバイスを受ける。
二 一連の言動について、不適切な部分があったことを認め、それを撤回すると同時に、国民に対し、遺憾の意を表する。
三 稲田朋美防衛大臣を罷免する(本当は、国会答弁の誤りを指摘される前がよかった)。
四 この際、「日本会議」との関係を断つ。少なくとも、「日本会議国会議員懇談会」の特別顧問を辞退し、同会から脱会する。また、閣僚で「日本会議国会議員懇談会」に属しているものに対して、首相として、または自民党総裁として、脱会を勧める。
五 森友学園の籠池泰典理事長など、今回の「疑惑」に関わるメンバーの国会招致を認める。

 以下に、今日(2017・6・25)の段階で、安倍首相が採りうる「危機管理対策」五項目を挙げてみる。

一 一連の言動のうち、不適切だったと思われる部分ついて、具体的に説明し、国民に対し遺憾の意を表する。
二 森友学園問題の捜査が、首相夫人に及んだ場合には、責任を取って、首相および議員を辞職する旨を表明する。
三 加計学園問題について、不適切な行政指導が存在したことを認め、認可をいったん白紙に戻す。
四 加計学園問題について、不適切な行政指導に関わった閣僚をすべて罷免する。 
五 「健康不安」説については、説得力のある反論をおこなった上で、続投の意思を表明する。

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敵の航空母艦が東京を空襲しようとしている

2017-06-24 04:51:15 | コラムと名言

◎敵の航空母艦が東京を空襲しようとしている

『航空情報』第二二号臨時増刊、特集「日本軍用機の全貌」(一九五三年八月)から、秋山紋次郎「本土防空作戦史 その一」を紹介している。本日は、その二回目(最後)。

  ドゥリットル飛行隊の
  日本本土空襲
 ハワイの奇襲で痛打を受けた米海軍は、やがて戦勢挽回の挙に出るであろうが、ここ当分は、機動部隊をもつて奇襲を策する程度であろうと判断されていた。
 わが海軍は、敵のこの奇襲に備えて、南鳥島附近から千島の南方にわたり、漁船を配置して哨戒線を張り、また哨戒機を洋上遠く600浬〈カイリ〉附近まで行動させて警戒を厳重にし、更に邀撃航空部隊として、陸攻80機を基幹とする第26航空戦隊を木更津及び南鳥島に配備した。
 敵の近接とわが反撃計画 昭和17年〔1942〕4月10日午後6時30分、わが通信諜報は、敵の航空母艦2隻若くは3隻が、真珠湾の西北方約40浬附近に進出し、14日頃、東京を空襲しようと企図しているらしいことを探知した。
 艦上機の行動半径は一般に短少なので、敵の母艦は300浬附近まで接近するであろう、この機を失せず必殺の魚雷攻撃をかけ、更に猛打を連続して敵の空襲を不可能にしよう、というのがわが反撃計画の狙いであつた。
 4月10日以後、敵情不明のまま18日を迎えた。午前6時30分、監視艇第二十三日東丸から果然「敵空母三隻見ゆ、犬吠岬東方600浬」との電報を受領した。
 第26航空戦隊は、直ちに攻撃準備を整え、かつ触接機を発進させた。午前9時45分、戦隊は、敵の双発機2機が、東京の東方600浬附近を西進中との情報を得たが、それ以来の敵情については何らの報告も受けなかつた。しかし、戦機を逸することを懸念した攻撃機隊は、午後0時45分、陸攻22機、戦闘機24機を以て、東方に敵を索めて〈モトメテ〉進発した。
 連合艦隊は、第1航空艦隊、第2艦隊及び第3、第8潜水戦隊を急遽出撃、この敵に向つて殺到させた。
 一方、本土の防空機関は、海軍からの通報によつて、敵の空襲は19日と判断していたので警報の発令をさし控えたが、横須賀鎮守府管区のみには、午前8時39分警戒警報が発令された。
 敵の奇策の奏功 18日午後1時頃、敵の爆撃機は、忽然として房総方面から飛来し、約50分間にわたり、通り魔のように、東京、横浜、川崎、名古屋、神戸等を奇襲して西方に飛び去つた。真に一瞬の出来事であつた。わが防空戦闘機が飛び上つたときには、敵は既に攻撃を終つて退避していた。
 わが反撃計画は、全く敵に裏をかかれ、敵機の行動は当時謎に包まれていたが、中国大陸のわが占領地域内に不時着した搭乗員の調査によつてその謎が解かれた。即ち日本本土空襲隊は、ドゥリットル陸軍中佐の指揮下に、約1箇月の訓練を受けたのち、空母ホーネットに搭載されて〔カリフォルニア州〕アラメダを出発し、途中エンタープライズと合同して日本に向つた。その空襲計画によれば、日本の東方400浬の地点から発艦して夜間空襲を行い、翌朝中国基地に着陸することになつていたが、18日早朝、日本軍に発見されたので、昼間強襲を行うことに変更し、犬吠岬の東方650浬附近から発艦したというのであつた。
 敵のこの奇襲は、および腰ではあつたが、とにかく日本本土は敵に空襲された。その作戦上の性質は、前記のように、さして恐るベきものではなかつたが、日本軍全局の作戦指導に及ぼした影響は、実に大きなものであつた。太平洋の主導権を敵手に委する契機となつたミッドウェイ作戦は、これによつてその実施を促進され、また中国大陸では、〔浙江省〕麗水、〔江西省〕玉山、〔浙江省〕衢州〈クシュウ〉等の敵飛行機群を覆滅するための浙贛〈セッカン〉作戦が、これによつて発動されるに至つた。
  本土防空の組級について
 本土の防空については、陸海軍中央協定により、全般の防空は陸軍の担任とし、海軍は、軍港、要港所在地及びその附近の防空のみを担任することとなつていた。
 ドゥリットル飛行隊の東京空襲以来、陸軍は、本土防空態勢の強化を急いでいたが、南東方面(ラバウル、ニューギニヤ方面をいう)及び中部太平洋方面で、わが第1線が敵に押され、積極防空の基本方針が、やがて通用しなくなるかも知れぬと判断された昭和19年〔1944〕春頃になつて、防空態勢の整備はようやく軌道に乗つた。
 防空組織の大綱 昭和19年〔1944〕6月初頭における防空組織の大綱はつぎのようであつた。【以下略】

 これによれば、軍は、一九四二年(昭和一七)四月一〇日に、「東京を空襲しようと企図しているらしい」敵航空母艦を探知していた。にもかかわらず、その後、四月一八日午前六時三〇分になるまで、その動きを把捉していない。これは、把捉できなかったというより、必死に把捉しようとしていなかったのではないか。
 また、一八日午前九時四五分、「敵の双発機2機が、東京の東方600浬附近を西進中」という情報を得ていたにもかかわらず、これに対応した索敵がおこなわれた形跡がない。
 しかし問題なのは、そうした技術的な「ミス」ではない。問題なのは、ドゥリットル空襲を受けた後も、なかなか、「防空態勢の整備」が軌道に乗らなかったことである。ようやく、それが軌道に乗ったのは、一九四四年(昭和一九)の春のことだったという。すでに、ドゥリットル空襲から二年が経過していた。

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外征軍が崩れれば本土は忽ち敵機に蹂躙される

2017-06-23 03:31:06 | コラムと名言

◎外征軍が崩れれば本土は忽ち敵機に蹂躙される

 昨日の続きである。昨日は、『航空情報』第二二号臨時増刊、特集「日本軍用機の全貌」(一九五三年八月)から、奥宮正武「本土防空作戦史 その二」を紹介した(ただし、最初の部分のみ)。
 本日は、同誌同号にある秋山紋次郎「本土防空作戦史 その一」を紹介してみたい。秋山の「その一」と奥宮の「その二」とは、内容が重複しているところがあるが、記述は、「その一」のほうが、ずっと詳しいものになっている。

  本土防空作戦史
  そ の 一   元第100飛行団長陸軍大佐 秋 山 紋 次 郎

 われわれの空はわれわれの手で護ろう、という声が、そう高くはないがしかし力強く、国民の中堅層の中から聞かれるようになつた。太平洋戦争では、日本の空は、遂に米空軍に踏みにじられてしまつたが、その戦いが如何に戦われたのであつたかを明らかにすることは、日本の空を日本人の手にもどす一つの出発点となるのではあるまいか。

  本土防空についての軍の
  基本的な考え方
 陸海軍合同の軍事参議官会議 昭和16年〔1941〕11月5日、この日は日本が、米英蘭国に対する開戦を決意した歴史的な日であつたが、その前日の11月4日、天皇親臨の下に陸海軍合同の軍事参議官会議が開催され、国防用兵に関する件が諮詢せられた。その席上、東条〔英機〕陸相は、百武〔源吾〕海軍大将の国土防空に関する質問に対して次のように答弁した。
「防空は陸海軍殊に航空部隊の積極進攻作戦を基礎として考えざるベからず。即ち国土防空は軍の積極作戦を妨害せざる範囲に準備せらる。
 わが防空兵力は、陸軍約100機、海軍約200機の空中兵力と、要地直接防空のため、高射砲、陸軍約500門、海軍約200門とを有し、微弱ながら最近その整備を終り訓練中なり。
 敵の空襲は、開戦直後にあらずして、若干の余裕あるものと考えあり。時々空襲を受くる程度にあらざるか。先ず航空母艦を進めて空襲す。敵がソ領を基地として空襲を行うに至れば相当危険なるも、開戦直後には起らずと考う。」
 この答弁は,軍中央部の国土防空についての基本的な考え方を明瞭に示したもので、わが本土を空襲し得る地城には敵の存在を許さないという積極防空を本旨としたものであつた。
 積極防空 防空には由来、積極防空と消極防空の二つの方法があると考えられていたが、積極防空というのは、空襲される危険をすくなくすることで、敵の航空根拠地を占領したり、或いは航空母艦を撃沈したりして、敵の空襲を不可能にしてしまうことであり、消極防空というのは、来襲する敵を如何にして防ぎ、また如何にしてその損害を局限するかを意味するものであつた。
 軍中央部の国土防空の基本方針は、陸海軍ともに、この積極防空であつた。軍の編制、装備、作戦、教育、訓練、技術、研究等は、すべてこの方針によつて律せられ、その殆んど全力を外征軍の強化に向けられたため、太平洋戦争の開始に際し、国土の直接防空に充てられた兵力は、数においても素質においても微弱なものであつた。限られた国力で、尨大な野戦軍と防空軍とを同時に編成装備することは事実不可能でもあつたであろうが、しかし軍の防空についてのこの考え方には、攻撃をもつて最良の防禦となし、また守れば足らずとする兵学上の鉄則が、伝統的思想となつて、その底に根深く横たわつていた。
 緒戦以来、わが陸海軍は、南方及び西太平洋の要域を占領し、敵を遠隔の地に撃退したので、開戦初期においては、当時の敵機の性能上、わが本土が敵の本格的空襲を受ける危険は全くなくなつた。従つて本土の対空防備は微弱なままに放置された。
 危険はそこに伏在していた。もし外征軍が崩れたならば、それ自身に待つある備えのない本土上空は、大なる抵抗を試みることも出来ずに忽ちにして敵機に蹂躙されるであろうからであつた。
 この積極防空の理念は、防空部隊の兵器と編成の上にも現われ、防空用飛行機は、このため特に研究製作されたものではなく、野戦用をそのまま充当されたもので、したがつて、その性能は防空戦闘の要求を充足するに不十分であり、また高射砲部隊等の素質も野戦部隊に較べると見劣りするものであつた。
 防空態勢の整備開始 昭和17年〔1942〕4月18日本本土は敵機の奇襲を受けた。その作戦上の性質は、わが第一線の崩れから来たものではなかつたので、さして恐るべきものでもなかつたが、わが国は、本土防空陣が余りにも貧弱なるを痛感し、これを契機として防空態勢の本格的整備を開始することになつた。
 陸軍では、昭和17年5月、防空宣任の飛行部隊として第17(東京)、第18(大阪)、第19(小月〈オヅキ〉)各飛行団を編成し、また京浜、小倉各防空隊(高射砲部隊)を強化してそれぞれ東部、中部、西部防空旅団に改編し、また航空情報網を整備強化した。
 海軍では、昭和18年〔1943〕3月、防空戦闘隊たる第302航空隊を横須賀鎮守府に編入し、次で、第332航空隊を呉鎮守府に、また第352航空隊を佐世保鎮守府に編入した。
 防空兵器の性能向上は、国力、なかんずく科学、技術、工業力に直接つながり、また兵力の強化は、外征軍との兼合いであつたので、これらの実現は容易なことではなかつた。ローマはやはり一日にしては成らなかつたといえよう。【以下、次回】

 一九四一年(昭和一六)一一月四日に開かれた陸海軍合同の軍事参議官会議の席上、東条英機首相兼陸相は、防空兵力が「微弱」であることを認めている。「陸軍約100機、海軍約200機の空中兵力」で、本土が守れるはずはない。
 こうした「微弱」な防空兵力のままで、対英米戦を決断したということは、本土が空襲される事態を、ほとんど考慮していなかったということである。あるいは、一定の戦果を挙げた段階で講和を結べばよい、などの目算があったのだろうか。それにしても、あまりに無謀な開戦ではあった。

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積極防空の隙をついたドウリットル空襲

2017-06-22 04:10:54 | コラムと名言

◎積極防空の隙をついたドウリットル空襲

 先日、なにげなく、『航空情報』第二二号臨時増刊、特集「日本軍用機の全貌」(一九五三年八月)を手に取った。巻末に、「本土防空作戦史」という文章があって、「その一」を秋山紋次郎、「その二」を奥宮正武が執筆していた。
 これらを読んで興味深かったのは、秋山も奥宮も、口を合わせたように、本土の防空には、「積極防空」と「消極防空」というふたつの考え方があると、まず説明し、続いて、ドウリットル空襲についてコメントしていたことである。
 実は、これらを読んで初めて、「積極防空」と「消極防空」という対概念があることを知った。また、一九四二年(昭和一七)四月のドウリットル空襲は、当時の日本における「積極防空」体制の隙をついて決行されていたこともわかって、たいへん勉強になった。
 順序は逆になるが、奥宮正武「本土防空作戦史 その二」のほうから、先に紹介してみたい。

  そ の 二   元海軍中佐 奥 宮 正 武

  積極防空と消極防空
 太平洋戦争中、本土防空という言葉は本州、九州、北海道及びその周辺の小さな島々を敵機の空襲から守るという意味で使われていた。
 戦略的に言つて、本土を敵機の空襲から守る方法には積極、消極の2つの方法がある。積極防空とは敵機を本土に近づけないことであり、消極防空とは来襲する敵機をいかにして防ぐかということであるが、本土の消極防空は海軍に関係ある一部地域を除いては、すベて陸軍の担任と定められ、海軍はそれに協力する立場にあつた。
 太平洋戦争の中期、すなわち昭和18年〔1943〕8月頃に、アメリカ陸軍の超空の要塞B‐29爆撃機の出現に関する確実な情報が入るまでは、わが国は積極防空を主として採用した。そしてそれは必ずしも不可能ではなかつた。というのは、B‐29以前の飛行機はその航続距離がそう大きくなかつたので、日本本土は、附近に敵飛行基地がない限り、敵機の空襲に対しては安全と思われていたからである。
 太平洋戦争の第一着手として、当時本土に最も近かつた米軍の航空基地であるガム島とウェーキ島に対する海軍の攻略作戦が、また中国の大陸において日本に近し、航空基地に対する陸軍の作戦が行われたのは主として以上のような防空の目的のためであつた。
 陸上を基地として行動する大型爆撃機や飛行艇の活動が、その基地を占領すれば完全に封ずることができるのと同じく、空母機の活動を封ずるには空母を撃沈するのがもつと手取り早いことは言うまでもない。ハワイの真珠湾攻撃が開戦へき頭行われたのも、またその根拠地で打ち洩した空母の本土空襲を早めに知るために、本土東方約700マイルの太平洋上に多数の監視艇からなる哨戒線が張られたのもこのためであつた。
 ガム島、ウェーキ島および中国大陸における作戦は一応その目的を達したが、肝腎の空母は真珠湾では捕捉できなかつた。当時同方面を根拠地としていた米空母は、ミッドウェーとウェーキの両島に飛行機を輸送中であつたといわれている。
  ドウリットル飛行隊の東京空襲
 わが空母部隊の飛行機隊が真珠湾に殺到した時不在であつた米空母ホーネットとエンタープライズを基幹とする部隊は、アメリカ西海岸で準備をととのえた後、昭和17年〔1942〕4月、初のわが本土空襲を敢行した。この時、所定哨戒線上のわが監視艇はいち早くこれを発見、極めて勇敢に行動して適切な報告を行つた。あらかじめ敵の企図を察して、連合艦隊司令長官山本〔五十六〕大将が関東方面に待機せしめてあつた第26航空戦隊は直ちに96式陸攻をもつてする索敵隊を、ついで零戦に掩護された1式陸攻を主とする雷撃隊を発進せしめた。しかし、敵艦隊がわが監視艇に発見されたことを知つて、飛行機隊を予定よりずつと早く発進せしめて反転したために、わが飛行機隊はこれを捕捉できなかつた。
 また、監視艇第二十三日東丸〈ダイニジュウサンニットウマル〉等が明かに敵双発機と報告したにもかゝわらず、内地所在の防空部隊は、空母に双発機はおかしい、とその報告に半信半疑であつたのと、空母がもつとわが本土に近づいてから飛行機を発進さすものと考えて敵機の来襲時刻を推定していたこと、さらにドウリットル中佐に率いられた双発のノースアメリカンB‐25爆撃機が、わが方の意表をつく低高度を飛んで東京その他を空襲したこと等が相まつて、わが陸海軍の邀撃〈ヨウゲキ〉戦闘機隊は敵機に対して全く何のなすところもなかつた。
 米機のこの空襲の後、6月上旬に行われたミッドウェー・アリューシャン作戦は、この時にはすでにその計画ができていたが、その作戦の一半の目的はこのような米空母部隊の行動を封ずることであつた。
 わが海軍の主力をあげてのミッドウェー作戦が失敗したにもかゝわらず、その後昭和19年〔1944〕中旬〔「6月中旬」か〕までは、敵機は全くわが本土の上空にはその姿を現わさなかつた。が、この約2年間も、東方洋上においては昼夜をわかたぬ監視艇の活動がつづけられていた。そしてこれらの監視艇の労苦は真に筆紙に尽せないものがあつた。【以下略】

 日本の防空方針は、一九四一年(昭和一六)一二月のハワイ真珠湾攻撃以降、一九四四年(昭和一九)六月一五日、中国の基地を発進したB‐29が北九州に姿をあらわすまで、終始、「積極防空」だったようだ。
 ハワイ真珠湾攻撃は、「空母機の活動を封ずるには空母を撃沈するのがもつと手取り早い」という、「積極防空」の考え方に基づくものだったという。
 太平洋戦争の「第一着手」として、海軍がガム島とウェーキ島を攻略したのも、また陸軍が中国大陸の航空基地を攻略したのも、「積極防空」の考え方に基づくものだった。
 その「積極防空」の隙をつかれたのが、一九四二年(昭和一七)四月のドウリットル空襲であった。この空襲の後、同年六月に行われたミッドウェー・アリューシャン作戦が決行されるが、その目的の一半は、「米空母部隊の行動を封ずること」にあったという。これもやはり、「積極防空」の発想である。
 結局、日本は、一九四四年(昭和一九)六月にいたるまで、「積極防空」から「消極防空」への転換ができなかった。B‐29の来襲によって、ようやく「消極防空」の重要性に気づいたが、そのとき、本土を有効に防衛する航空部隊に欠け、焼夷弾攻撃に耐える防火建築物も普及していなかった。
 最初から「消極防空」を重視していれば、大戦末期における多大な非戦闘員の犠牲は避けられたに違いない。いや、最初から「消極防空」を優先していれば、太平洋戦争そのものが勃発しなかった可能性もある。――こんなことを考えてしまった。

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1962年5月、白木屋で「史上最大の祭典」

2017-06-21 03:29:02 | コラムと名言

◎1962年5月、白木屋で「史上最大の祭典」

『日本古書通信』通巻504号(一九七一年七月一五日)から、太田臨一郎のエッセイ「古書展覚え書(下)」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。昨日、紹介した部分のあと、改行して次のように続く。

 昭和二十六年〔一九五一〕十二月二十五日大阪版に、二十七日東京版に朝日新聞は「古本屋には最悪の年」と題して業界の現状を伝えた。当時、戦前に比べて東京は七十店減少して八百五十店だったし、戦災を蒙らなかつた京都でも五十店減じた二百七十店であつた。しかし、二十五年〔一九五〇〕六月には「無慮三万点の古書陳列」と号した綜合古書展が松坂屋で行われたほか、銀座書友会が伊東屋で、東京古典会は白木屋で、前記のぐろりや、東京書友会と趣味展は古書会館で、という具合に開かれていた。荻窪の古物会館を会場とした中央線古書会が第一回を開いたのも二十五年〔一九五〇〕十一月ではなかったか。
 これが三十年〔一九五〇〕には、和洋会、趣味展、ぐろりや、書友会、新興古書会、愛書会、古典会、洋書会、資料会、荻窪展、上野松坂屋古書展、城南古書展などがあつた。もつとも年一回のもあり、隔月のもあつた。城南古書展は二十五年〔一九五〇〕三月、第一回を三軒茶屋の世田谷古物会館でやり、翌年宮益坂の喫茶店サザエさんに移つた。明治物など出ることもあり、狭い割に面白い会だつたと覚えているが、現在は古書会館と五反田で開催している。
 大阪では二十六年〔一九五一〕、阪急七階での彙文堂、文求堂、山本書店と東西連合の「中国古書籍即売展」のごとき異色ある会もあつたが、比較のため三十年度〔一九五五〕の会を挙げるとセコハン街と愛称された地下に古書部のあつた松坂屋の古書即売会のほか、阪急古書大会、京阪神有名老舗古書大廉売会、オール大阪古書大会、同じく十合の良書と名著の古典籍展示即売会、三越古書即売会などがあつた。
 昭和二十六年一月、東京の一流古書店が、文車の会を組織して、毎月一回、書誌学や、経営の研究を発表していたが、その文車の会が三十七年〔一九六二〕五月に行つた白木屋古書大即売展は「史上最大の祭典」と謡つただけに稀覯〈キコウ〉の和書が多く、目録も口絵入りのB5判で、以後の大古書展の模範となつた。これに対して庶民的な企てで成功したのは三十七年十一月読書週間に呼応した青空市であつた。神保町〔交差点〕角の現在信山会館が建つている岩波書店所有地を使用させて貰つて一店一台割当の五十台、看板通りの野天会場。新聞や、ラジオでも伝えられたので、それまで古書展の存在を知らなかつた人達まで吸引して成功を収めたので、以来、毎年の恒例となり、近頃は錦華公園を会場としている。
 設備で目を見張らせられたのは三十九年〔一九六四〕十一月、古書会館で開かれた東京古典会の絵巻物、絵入本絵本即売会で、場内に幔幕〈マンマク〉をめぐらし、床に赤い絨毯を敷き、低い台に平に本を置くという趣向。目録もA5判で図版五十頁、目録三十二頁総アートの豪華なものであつた。A4判のぼう大な目録は四十一年東京古典会の西武古書大即売展が最初であろう。爾来、明洽古典会、東京古典会、三都古典連合会の入札目録や、弘文荘の古典籍逸品稀書展示即売会の目録など、同じくA4判総アー卜紙の見事なものを配布してくれた。実はこの種の目録を重ねておいた押入の一角は床板が折れて、大工さんから「本も大事でしようが、家も大事にしなさい」と忠告される始末。もとより、これは貧寒な陋屋が悪いので、わが文運の為めには賀すべきことには相違ない。
 一方、古書会館での例会の他に南部古書会館で五反田古書展があり、下町書友会の浅草古書即売展があり、吉祥寺で武蔵野古書会も開かれる。荻窪古書展は杉並古書即売会と改名し、高円寺の中央線古書展も毎月開かれる。三十一年〔一九五六〕以来、年二回開いている神奈川古書会館のハマ展は横須賀の本屋さんも入っているせいか、日露戦争当時の軍事書や、県下の郷土誌がよく出る。東京にいると、延べ日数にして毎月古書展のない日の方が少ない。まことにめでたい限りだが、「良い本を廉く届ける」という昔からの古本屋さんの持つ矜持〈キョウジ〉は保持しつづけてもらいたいものである。文化の配給業者なのだから。

 文中に、「この種の目録を重ねておいた押入の一角は床板が折れて」という一節がある。筆者の太田臨一郎は、大正末期以降の「古書展」関係資料を大量に蒐集保存していた。それに依拠しながら、この文章を書いているわけである。その太田にしても、荻窪の古物会館を会場とした「中央線古書会」(ママ)が最初に開かれた年は特定できていない。
 また、本日、引用した部分によると、このエッセイが書かれた一九七一年(昭和四六)七月現在、中央線沿線では、吉祥寺で武蔵野古書会、荻窪で杉並古書即売会、高円寺で中央線古書展が、「毎月」開かれていたらしい。しかし、このあたりの事実関係も、まだ十分に把握していない。博雅のご教示をたまわれば幸いである。

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