◎明治天皇、三好退蔵検事総長に犯人の死刑を命ず
本日も、大場義之さんの『大津事件の謎に迫る』(文藝春秋企画出版部、二〇〇六)について、紹介する。ただし、同じような話が続くのもどうかと思うので、この話は、本日でいったん切り、後日、再開することにしたい。
昨日は、同書の二四〇~二四二ページから引用したが、本日引用するのは、それに続く部分で、二四二~二四四ページから。
このあたりを伊藤博文の五月一七日付松方正義首相あての書簡でみると、
「小生一昨十五日見舞之為神戸ニ井上伯ヲ同行(略)」(三〇九頁)
と、いかにもニコラス皇太子を見舞うのが神戸へ行く第一の目的であったかのように書いている。しかし、書簡には見舞いの内容はいっさいふれていない。実際に見舞っているのであれば、皇太子の様子など松方に知らせるのが当然のことではあるまいか。当時の「神戸又新日報」〈コウベユウシンニッポウ〉をみても、五月一七日一面で伊藤博文と井上馨が一五日午後九時着の汽車で来神し諏訪山常盤西店に投宿したことを報じるのみで、翌日神戸港に停泊中のアゾヴァ号艦上にニコラス皇太子を見舞ったことなどの報道はない。
伊藤は一五日午後、青木〔周造〕、西郷〔従道〕、三好〔退蔵〕の三人が明治天皇の御前に伺候して何をしようとしているかを十分知っていた。もちろん腹心の伊東巳代治も同様であった。三人はこれまでの東京や京都での情況を天皇に奏上説明し、その判断を天皇に委ねることでしか現時点での結論は出せない。しかしその場に伊藤博文がいては、その後の処理が難しくなる。端的に言えば、この場に伊藤がいてはのっぴきならの形で最終結論が出てしまう危惧があった。伊東巳代治はそのことをおそれた。それには伊藤を京都から遠ざける他はない。
天皇は仕方なく裁定せざるを得なかった。同日午後七時五五分、野村靖(京都御所の会議の出席者の一人)が、松方総理大臣あてに次の電報を発している(東京で着信したのは翌五月一六日午前六時五分)。
「津田ヲ死刑ニ処スルコトハ陛下ヨリ直チニ三好ヘ御命令アリ依テ大審院判事ヘモ亦其思召ヲ貫徹セシム様御尽力アリタシ」
(右電信文(壱)輻湊遅延略、内容暗号文)」(二四七頁)
しかし、明治憲法を天皇の名によって発布した限りにおいて、天皇に死刑の命令を決定させてはならない。そのため、この憲法作成の実質的な作業に参加していた伊東巳代治は、二〇日の大審院判・検事への勅語下賜に向けて動きだしたのである。
大場義之さんが引用している電文は、山梨学院大学社会科学研究所から出た『大津事件関係史料集』の下巻(一九九九)にあるもので、明治天皇が、津田三蔵を死刑に処す意思を表明したことを示す決定的な証拠である。「天皇は仕方なく裁定せざるを得なかった」のではなく、明確に裁判に介入する意思を持ち、それを実行したのである。
ところが、大場さんはそのように見ない。そのあと、伊東巳代治の画策によって、「二〇日の大審院判・検事への勅語」は、裁判介入にならない表現をとることになり、明治天皇が裁判介入は、最終的に回避されたと捉えるのである。
これについては、反論があるが、機会を改める。なお、この事件に、興味をお持ちの方には、新井勉先生の『大津事件の再構成』(お茶の水書房、一九九四)を読まれることをおすすめしたい。また、拙著『大津事件と明治天皇』(批評社、一九九八)も参照していただければ幸甚である。
*今月1日と7日(昨日)は、アクセスが多かったようです。ブログ開設以来、アクセスが多かった日のランキングと、その日のコラムのテーマを一覧で示します。ご覧の通り、テーマは、さまざまであり、どういうテーマを選ぶと、アクセスが多くなるかという傾向は、いまだにつかめません。
1位 本年4月29日 かつてない悪条件の戦争をなぜ始めたか(鈴木貫太郎)
2位 本年2月26日 新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』(1946)
3位 本年2月27日 覚醒して苦しむ理性(矢内原忠雄の「平和国家論」を読む)
4位 昨年7月2日 中山太郎と折口信夫(付・中山太郎『日本巫女史』)
5位 本年2月14日 ナチス侵攻直前におけるポーランド内の反ユダヤ主義運動
6位 本年4月30日 このままでは自壊作用を起こして滅亡する(鈴木貫太郎)
7位 本年1月2日 殷王朝の崩壊と大日本帝国の崩壊(白川静の初期論文を読む)
8位 本年1月10日 『新篇路傍の石』(1941)における「文字の使用法」
9位 本年6月1日 警邏線、夜寒や背に治安維持(『警察作文の作り方』より)
10位 本年6月7日 伊藤博文、京都御所での重臣会議を中座し、神戸に向かう