礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

西郷四郎が講道館に入門した経緯についての通説と異説

2013-06-29 04:12:50 | 日記

◎西郷四郎が講道館に入門した経緯についての通説と異説

 昨年七月一八日に書いたコラム「柳田國男と天神真楊流柔術(西郷四郎と柳田國男の意外な接点)」において、私は、次のように書いた。

 天神真楊流の道場は、神田於玉ヶ池〈オタマガイケ〉にあり、嘉納治五郎はここで、宗家三代目の磯正智〈イソ・マサトモ〉から天神真楊流を学んだという。
 井上通泰〔柳田國男の実兄〕および柳田國男がついた「井上という名の先生」というのは、天神真楊流の井上敬太郎を指す。井上敬太郎は、磯正智の高弟で、湯島天神下に井上道場と呼ばれる道場を持っていた。柳田もここに通ったのである。この道場は、「鬼横山」と称された横山作次郎、「姿三四郎」のモデルとされる西郷四郎らを輩出した名門道場であった(横山・西郷は、のちに講道館に入門)。
 嘉納治五郎が、直接、井上敬太郎に師事していたかどうかは、不詳(柳田は、「嘉納さんもその先生についた」と言っている)。ただし、西郷四郎は、井上道場にいたところを、嘉納治五郎に見出されたとされている。それが事実だとすれば、嘉納は井上道場に出入りしていたことになる。

 ここでは、井上道場にいた西郷四郎の資質に目をつけた嘉納治五郎が、西郷を講道館に誘ったという通説に従った。
 しかし、星亮一氏の新刊『伝説の天才柔道家 西郷四郎の生涯』(平凡社新書、二〇一三)を読み、右の通説とは異なる説があることを知った。下谷〈シタヤ〉の永昌寺に柔道場を開設した嘉納治五郎が、住込みの書生を求めていることを聞いた西郷が、自分から門を敲いたという説である。星亮一氏は、こちらの異説のほうが、「信憑性が高いように思う」と述べている。
 星氏が、そのように判断する根拠は何か。【この話、続く】

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