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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

加賀山之雄「下山事件の蔭に」(1955)を読む

2025-07-04 00:34:51 | コラムと名言
◎加賀山之雄「下山事件の蔭に」(1955)を読む

 下山事件についての話題を続ける。ちなみに、事件が起きたのは、1949年(昭和24)7月の5日から6日にかけてのことであった(下山総裁の失踪が7月5日、列車による轢断が7月6日)。
 本日以降は、『文藝春秋』臨時増刊「昭和の三十五大事件」(1955年8月)から、加賀山之雄(かがやま・ゆきお、1902~1970)が執筆した「下山事件の蔭に」という文章を紹介してみたい。

 下 山 事 件 の 蔭 に     
    ――事件当時の副総裁たりし筆者が七回忌を
    迎えて始めて筆を執る下山事件秘録――
                         加賀山之雄【かがやまゆきお】
   苦難の道を往く国鉄
 あれからもう満六年になる。命日に当る七月五日には芝の青松寺で七回忌の法要が営まれた。七回忌ともなると参拝者は施主の国鉄幹部達や近親、それに極く親しかつた人々等に限られ、あれ程世人に衝撃を与えた事件も真相が究明されないまゝに忘れ去られようとしているのだ。時々、知人などから『あれは一体どうしたんですか、貴君はどう思うか』など訊かれて戸惑いするようなこともあるが、その度に私は所謂自殺説を強く否定して来た。一口にあれは自殺だ、或は他殺だと片づけて了えない所にあの事件の複雑性があるのだと思う。昭和二十六年〔1951〕三回忌を迎えて発刊された故下山総裁の追憶集の序に求められて書いた私の一文を再録してみる。
『今でこそやつとの思いで筆をとる事が出来るが、あの当時のことを思い出すだに身も凍る思いである。早くも下山さんの三年忌を間近にひかえて傷恨〈ショウコン〉永く尽きるところがない。それにしてもどうしてあれ程の大きな出来事が今以て国民の前に明らかにされないのであろう。いや、普通社会の常識や通常人の推理で解き得られぬのがあの事件の本質であつたかもしれない。行手にどんなことが待ち構えているか、人間にそれが解る筈もないし、苦境に在つてはやがてはというはかない望を続け楽しみの中に在つては何時それがくつがえるかも知れぬのをつい忘れて了う。それが人生である。生者必滅〈ショウジャヒツメツ〉の理は頭の中に心得ていても一旦現実にぶつかれば魂は飛び心乱れて徒らに〈イタズラニ〉因果のきずなをまさぐり戸惑うのが人の常であらう。
 下山さんの死はそうした世の常の法則を超えた出来事であつたに違いない。こんなことが起り得るのか、当時我々は自らの眼や耳を疑わざるを得なかつた。常識や普通の因果の法則ではとても説明出来ないことなのである。科学者達は真剣な探究を続けたし一方では小説もどきの勝手な推理も随分行われた。然しながらそのどれもが所詮は真に謎をとく鍵にはなつていない。私は思う、全く因果の法則を起えた、いわば超人間的な事柄がひそんでいるとすれば我々にそれがたやすく解明出来ないのも已むを得ないことなのかもしれないと。歴史の激動期などには何かしら一つの強い力で個々の意思も生活も生命も押し流されふりとばされて行くように見える。革命の歴史は我々に普通の社会では考えられない事態が相次いで人々の意思や常識をとび超えて起きることを教えている。下山さんの死は日本の歴史が大揺れに揺れて国がどちらへ行くのかどうなるのかさえ気づかわれ国民は右往左往、社会も産業も秩序というものを失つて了つた。そうした激動と混乱の頂上で起きた事件であつた。」
 実際国鉄は戦争中から戦後にかけて全く苦難の道を歩み続けたが昭和二十四年〔1949〕という年は恐らくその頂点であつたろう。資金と資材の不足、老衰した施設、超過剰な人員、インフレの昂進というような悪条件はその極度に達し、戦後労働問題に関するG・H・Qのミスリードとこれに乗ずる日本共産党の戦術にかきまわされて、いわゆるニッチもサッチもいかぬといつた状態である。どの事実を見ても経営側はこのはき違えか或は故意に勢に乗じたこの民主主義の抬頭によつて辛酸を嘗め中には腰が抜けて了つたのではないかというような様が見受けられた。一方では革命近しと呼号して今にこちらでお前等のほんものの首を切つてやるぞとおどかすちんぴら共産党員もあつたし、笑い話でなく共産党に入つて居れば命だけは大丈夫だからというようなもの迄出る始未である。〈210~211ページ〉【以下、次回】

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