礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

非常な学者で腕力も強く、いい子分を持っていた

2017-10-15 05:34:30 | コラムと名言

◎非常な学者で腕力も強く、いい子分を持っていた

 芳賀利輔著『暴力団』(飯高書房、一九五六)の「やくざの世界」(インタビュウ)から、「やくざ者」について語っているところを紹介している。本日は、その二回目。

ききて 大体それはいつごろですが。
芳 賀 それは大正の初年から昭和の十八、九年ごろで、東京に相当えらい人がずいぶんおりましたが、それを彼がみんなおさえておつたんですから相当なものです。武部さんの言うことは何でも聞いた。ということは、この人は暴力ばかりじやない。非常な学者であり、そして腕力も強かつた。それで子分のいいのも持つておつた。だから何かあつてもすぐ間に合う。自分が貧乏しても困る人には金を与えるというようなために絶対だつたんです。それで喧嘩がきらいというんですからまた妙です。
ききて 大親分ですね。
芳 賀 今の四十以上の人はみんな知つている。それから武部申策の人となりがちょつとおもしろい。何かの参考になると思いますから話しておきますが武部申策の人となりというものはあの人は和歌山県の人で東京に出てきて、どこにもいるところがなかつた。十二か十三のときに出てきたらしい。ところが、そのときに東京の蛎殻町〈カキガラチョウ〉に古賀のきっつあん、古賀吉さんという人がいた。その当時蛎殼町というところは、米の相場がたつていた。そしてここで話が多少さかのぼりますが、博奕打ちの一家に生井一家〈ナマイイッカ〉というのがあつた。それをどうして生井一家というかといいますと、昔逸見貞蔵〈ヘミ・テイゾウ〉という人がある。これは徳川時代に今の蔵前の国技館の所でいわゆるお米の相場がたつたんです。
ききて いわゆる礼さしですか。
芳 賀 ええ、その親分がこれは神陰流〈シンカゲリュウ〉の達人で、その人の流れなんですょ。
ききて その流れといいますと。
芳 賀 その人の子分の子分です。その、古賀吉という人がいて、その人はなりが小さくて男ぷり〈オトコップリ〉もよかつたので、昔東京市長をしていた星亨〈ホシ・トオル〉が余りの出来物〈デキブツ〉な為に敵が多かつた、一人歩きが危険な為に古賀吉をつれて歩いた。いつでも唐棧〈トウザン〉の着物で角帯〈カクオビ〉を締めて歩いているが隼さ〈ハヤブサ〉の吉ともいわれて人を斬つたり殺したりするのが早いんです。それでその寵愛をうけて居たのだ。当時東京市長をしていた星亨は大変な努力家であつたから、新橋のあらい髪のお妻という有名な芸妓を愛妾にして居た。そこへ行くにも用心棒として古賀吉を連れて行く。
 ところが星亨はドラ声で、髯むぢやらに加えて明治時代の政治家だから傲慢無礼ときて居るに反し、古賀吉は歳が若いところへもつてイキでいなせで美男子ときて居るから何時しかお妻に浮気心ができたのだろう、二人は密かに逢うせ〈オウセ〉を楽しむようになつた。
 古賀吉は蛎殼町へ帰らない晩が多くなつた。
 古賀吉の妻君が焼餅をやくるようになつて、子分共にも当り散らすようになつた。
 当時博奕が好きで遊びに来る武部申策という小僧が居た。
 近頃の姉さん(古賀吉の妻)がヒステリーを起して子分共に辛く当るのを見て武部は子分の者に聞いて見ると、古賀吉親分が大先生の妾とおかしくなつたとの話に、何か機会があれば出世の糸口を見出だそうとして居た際だから、その足で新橋の洗い髪のお妻の処を訪ねた。
 古賀吉の子分だというふれこみだからお妻は早速会つてくれた。親分古賀吉がいま名代〈ミョウダイ〉の新橋の芸妓おつまさんとおかしくなつて居るとの評判、大先生星亨に対する不義等に対し、このままでおくなれば将来古賀吉の破滅がくること、どうか諦めてくれることを頼んだ。
 お妻は利口な女だからこの名もない小僧のいうことをあつさり聞いてくれた、もつとも武部も頼みを聞いてくれない時には覚悟があつたそうで、武部の懐ろ〈フトコロ〉には匕口〈アイクチ〉がしのんで居た。土産物としておつまは金三両に半紙に包んだお妻の髪の毛も少しくれてよこした。この話を昔、伊藤痴遊という講談師がやると天下一品であつた。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2017・10・15(2・4・7位に珍しいものが入っています)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« やくざ者・芳賀利輔の「暴力」観 | トップ | 星亨の名前を忘れないため日... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事