礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ハーグ密使事件(1907)と吉田松陰

2014-06-16 05:10:06 | コラムと名言

◎ハーグ密使事件(1907)と吉田松陰

 国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)に収録されている諸編のうち、最も資料的な価値が高いのは、おそらく、倉富勇三郎の「伊藤公と韓国司法制度」であろう。しかし、この紹介は、機会を改めておこなうこととし、本日は、別の本の紹介をしたい。ただし、テーマはあいかわらず、伊藤博文である。
 香川政一の『松陰逸話』(含英書院、一九三五)は、タイトルの通り、吉田松陰の逸話を集めた本であるが、その中に、伊藤博文の逸話が紹介されている。本日はこれを紹介してみよう。

 時代は明治のことになりますが、明治四十年〔一九〇七〕七月といふと、海牙〔ヘーグ〕会議(第二回万国平和会議)に、韓国皇帝の密使が現はれ、日本帝国の多年の好意を無視して、列国の共同保護を得ようと計画したことがあります〔ハーグ密使事件〕、幸に当時の列国は賢明にして之を顧みず、却つて韓国の背信を賤み〈イヤシミ〉、事失敗に帰しましたが、当時初代の韓国統監たりし伊藤博文公は、輿論の帰向を察して、韓国の兵権を我手に収め、韓国皇帝は其の十九日〔同年七月一九日〕に位を太子に譲られ、二十日に太子の朝見式があつて、光武といふ年号は隆凞といふ新年号に代へられました、乃ち伊藤公は太子の太師たる重任を帯びられて、我が陛下に経過を奏上するため、八月十一日京城を発して、帰朝の途に上り、八日十三日に下関に着船せられました。
 下関市長の白上俊一氏が先づ埠頭に出迎へすると、公は言はれました。
「君は萩の人だから一つ依頼することがある、萩の松本に松陰先生の兄〔杉〕民治〈ミンジ〉翁が居られる、其処へ言うてやつて貰ひたいのだが、松陰先生も朝鮮のことが種々御気懸りであつたらうが、不肖ながら伊藤が太子太師となりましたので、軈て〈ヤガテ〉は太子を日本にお連れ申して御教育もする積りであるから、先生も何卒地下で御安心遊ばすやうにと、松陰神社に申上げて貰ふのだ、さうして序に〈ツイデニ〉伊藤が斯くなつたのも、全く先生の御蔭であると感謝して貰ふのだ、」
 此の日萩からは瀧口吉良、国重政亮、岡十郎の諸氏並に、三田尻の毛利公爵邸に仕へて居られた民冶翁の嗣子、杉相次郎氏も下関に出迎へられましたが、伊藤公は次々にこれ等の人に逢ふや、又皆同じことを依頼せられました。【以下、次回】

 統監府統監・伊藤博文は、ハーグ密使事件を捉えて、一九〇七年七月二四日、第三次日韓協約を成立させる。伊藤にとって、この第三次日韓協約は、師である吉田松陰に報告するに値する大きな成果だったことがわかる。


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