礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

中村敬宇訳『自由之理』と明治文化研究家・柳田泉

2012-09-03 04:43:51 | 日記

◎中村敬宇訳『自由之理』と明治文化研究家・柳田泉

 一昨日、柳田泉訳『自由論』(一九四〇)を紹介し、昨日、中村敬宇訳『自由之理』(一八七二)を紹介した。
 柳田泉は、『ミル自由論・功利論』(春秋社、一九四〇)の「解説」の中で、ミルに対し「俗物中の俗物」という偏見を抱いていた時期があったと述べている。

 だが大正の末年ないしそれ以前から高まっていた私の明治文化研究熱が、必然的に私を駆って〈カッテ〉、明治初期の翻訳文学を渉猟〈ショウリョウ〉せしめるにつれ、私は中村敬宇の『自由之理』その他によって漸く〈ヨウヤク〉ミルの諸書に接するにいたった。そうして驚いたのは、私のミルに対する考え方が全然間違っていたのを発見したことであった。それから私は俄〈ニワカ〉にミルの原著の勉強を始めて、その有名な著作は一通り読んでみた、よく分らぬながら、その政治、経済に関する書物も繙いて〈ヒモトイテ〉みるまでになった。

 柳田泉がミルを翻訳するようになったキッカケは、中村敬宇の『自由之理』だったというのである。これを読んで、明治文化研究家として知られる柳田泉が、なぜミルの翻訳なのか、という疑問を解消することができた。
 柳田は、『自由論』を翻訳するにあたって、富田義介・小倉兼秋『新訳ミル自由論』(培風館、一九三三)を参考にしたというが、同時に、次のようなことも述べている。

 それから別の意味で訳者を啓蒙してくれたのは、中村敬宇先生の『白由之理』である。これは、この書を日本に最初に紹介したもので、実に明治四年の刊行であるが、今これを読んでみて、訳が案外正鵠〈セイコク〉を得ているのに驚いた。あの難しいものを、よくもこれだけに訳しこなしたものだとつくづく嘆服〈タンプク〉した。頭の問題ではない。良心の問題だ。勿論訳し了せ〈オオセ〉ないところを省いたり、見当違いや舌足らずめくところもないではない、今日の語学的知識で突っつけば無数に瑕疵〈カシ〉が出てくるであろう。しかし時代という点を考慮に入れると、私は、これは実に立派なものだと思う。敬宇先生が懸命に自家の解釈を加え、その解釈をいたるところに盛り込んで示してある。この解釈が実に参考になるのである、またそこに敬宇先生その人の思想が明白に出ていて誠に面白い。

 先達に対するこうした敬意は、読んでいて気持ちの良いよいものである。同時に、柳田泉という学究に対しても、改めて好感を抱く。
 ところで、柳田は、『自由之理』の刊行を「明治四年」(一八七一)としていた。これは必ずしも間違いではない。というのは、明治文化全集第五巻『自由民権篇』(日本評論社、一九二七)所収の『自由之理』初版を見ると、その扉に「SURUGA〔駿河〕,1871」、あるいは「明治辛未〔一八七一〕初冬新刻」とあるからである。ただし、発兌〈ハツダ〉は、翌明治五年(一八七二)二月だったという(明治文化全集第五巻『自由之理』解題、下出隼吉執筆による)。
 なお、同じく『自由之理』初版扉によると、中村敬宇が翻訳に使った原本は、一八七〇年のロンドン版だったようだ。

今日の名言 2012・9・3

◎自由之理を読んで心の革命を起せしは其の年の三月の事だ

 東北の自由民権運動を指導したことで知られる河野広中〈コウノ・ヒロナカ〉は、明治六年(一八七三)三月に、中村敬宇訳『自由之理』を読み、「不思議と思はるる程の力を奮ひ起した」という。『河野磐州伝』(河野磐州伝刊行会、1923)より。ただし、明治文化全集第五巻(1927)『自由之理』解題(下出隼吉執筆)からの重引である。

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