礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

正常に戻った大川周明を中津村に訪ねる

2013-11-05 04:50:57 | 日記

◎正常に戻った大川周明を中津村に訪ねる

 本日も津久井龍雄の『右翼』(昭和書房、一九五二)より。
 東京裁判の被告とされていた大川周明は、裁判中の一九四七年四月に「精神異常」と判断され、その後、いくつかの病院を転々とするが、次第に「正常」となり、一九四八年(昭和二三)一二月には、神奈川県愛甲郡中津村の自邸に戻ったという。以下は、津久井龍雄が、一九四九年(昭和二四)五月ころに大川周明を自邸に訪ねたときの模様。『右翼』二一一~二一三ページ。

 戦犯釈放後の心境
 終戦後大川〔周明〕博士は戦犯として収容され、その間に一時乱心の症状を呈し、松沢病院に移されたが、この乱心症状はきわめてわずかの間にすぎなかったようだ。博士の近著『安楽の門』によると、その時のことを次のように述べている。
《さて私〔大川〕は乱心の結果、昭和二十一年五月上旬、巣鴨刑務所から本所の米国病院に移され、六月上旬に、其処から本郷の東大病院に、そして八月下旬には更に松沢病院に移された。この数ケ月の間、私は実に不思議な夢を見続けた。私は其夢の内容を半ば以上は明瞭に記憶して居る。然るに此の夢は松沢病院に移ると殆ど同時に覚めてしまった。夢が覚めたといふことは、乱心が鎮まったといふことである。私は東大病院に移されたのは、恐らく私の病気が当分治りさうもないといふ診断の結果と思はれるが、移ると同時に病気が治り初めたのである。尤も数ケ月に亘る長い白日夢のことであるから、覚めた当座は現実と夢幻との境が判然しなかつたが、翌昭和二十二年の初春には、丁度二日酔が奇麗に醒めたやうに、私の精神は全く常態に復つた〈カエッタ〉。松沢病院入院後約二ケ月を経た十一月一日から、私は日記を書き初めたが、いまその日記を読んで見ると十一月七日の条には『雨、寒し、午前薄伽梵歌〈バガボンカ〉、午後ソロヰヨフ、今日は此の病院が巣鴨より松沢に移転し来れる記念日なりとて、午後講堂にて素人芝居あり、昼飯は赤飯』とある。ソロヰヨフといふのは彼の大著『善の弁証』のことで、薄伽梵歌と共に多年に亘る私の精神の糧〈カテ〉である。私は自分の理解力や記憶力が、病気のために何んな〔ドンナ〕影響を受けたかを試すために此等の書を読み返したのである。そして格別の影響を受けて居らぬことを知つた。》
 かくして博士は完全に正常に戻ったのであるが、どういう理由か裁判から除外され、昭和二十三年暮不起訴処分で釈放され、十二月三十日に無事中津村の人となりえたのである。私〔津久井〕は此の直後と言っても翌年の五月だったと思うが、木原通雄〈ミチオ〉君と共に博士をその村居に訪れ、半日の清談を交した。博士は非常に丈夫そうで、万事以前とすこしも変らず敗戦についても格別の感想を抱いてはいないようであった。最も敗戦は彼には夙に〈ツトニ〉予知されたことで、されば中野正剛が死の直前に宇垣一成〈ウガキ・カズシゲ〉内閣を出現させて日本の頽勢を挽回しようとしたときも、『宇垣が出たって敗戦を免れることはできるものではない、今は敗戦のさいの処置を考えるべきでそれには宮様内閣がよい』といって、中野と天野辰夫の熱心な勧説にも耳を傾けなかったのである。彼は私と木原君の顔を見て云った。『日本は愚かだったんですよ、アメリカを相手に戦うなんて無茶だよ、併しそれは必ずしも悪であったわけではない。愚と悪とは必ずしも同じじやない』と。

 以上が、「戦犯釈放後の心境」の全文だが、大川周明の談話の紹介はさらに続く。
 なお、大川周明著『安楽の門』は、一九五一年、出雲書房刊。まだ、読んだことはないが、津久井龍雄がその一部を引用してくれていたおかげで、大川周明がロシアの哲学者ソロヴィヨフの影響を受けていたことを知った。ちなみに、ここにある書名『善の弁証』とは、今日、『善の弁明』と呼ばれているようである。【この話、続く】

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1 コメント

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Unknown ( 金子)
2013-11-06 23:12:31
 やはり、大川の「精神錯乱」というのは嘘だと思います。
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