礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

上田躬荘と高山広子(「隆法窟日乗」より)

2016-01-12 03:30:18 | コラムと名言

◎上田躬荘と高山広子(「隆法窟日乗」より)

 本日も、柏木隆法さんの通信「隆法窟日乗」を紹介させていただく。昨日、「通しナンバー542」の通信を紹介したが、本日、紹介するのは、その次にあたる「通しナンバー543」の通信である(日付は明記されていない)。

隆法窟日乗(9月
 思い出が次から次へと浮かんでくる。松本錦四郎がじたくで服毒自殺したころ、日本電波が倒産したために社葬にはならなかった。倒産の経緯も金がなかったわけではない。経理を担当していた笹井武彦が僅2万円の不渡りをだしてしまった。笹井武彦とは笹井末三郎〈スエサブロウ〉の従弟で渡辺プロダクションの俳優事務をやっていた。拙も何度か会ったことがあるが、カツドウ屋に似合わず派手好みで金遣いが激しく松本常保ともよく衝突をしていた、それでいて俳優からの上納を強いたりエキストラの人数をごまかして自分の懐にいれたことがバレて末三郎からこっぴどく窘め〈タシナメ〉られたことがあった。フジテレビの『三匹の侍』や東京放送の『大江戸捜査網』の出演ギャラも霞めとられて笹井武彦は妾宅まで作っていた。伊藤大輔が飛騨の古民家を京都に移築する際も武彦が経費を都合した。日本電波倒産の話は報道より早く映画関係者に拡がり、日本電波倒産以降、武彦は映画界から姿を消した。笹井末三郎は松本に申し訳ない気持ちで有栖川〈アリスガワ〉の家を売り、麩屋町〈フヤチョウ〉三条の借家に引っ越し、自らの生命保険の受取人を松本常保に書き、日本電波の社員の退職金は亀岡の撮影所を売り、東映と大映に移籍させた。その中でごく一部の俳優はまたエクラン演技集団という劇団として残した。松本錦四郎は笹井末三郎の訃報と日本電波の倒産を聞いて厭世自殺をした。ちょうどその頃松本は安藤昇主演の『男の顔は勲章』を撮り、世間の注目を浴びていた。安藤は安藤組の組長で横井英樹襲撃で世間に知られていた。拙の感想だが、この人だけは小道具の刀を持たせると凄味があって怖かった。演技は上手い方ではなく、ジュラルミンの刀身を思いっきりぶつけるので、拙らカラミは怪我ばかりしていた。第6作になるフジテレビの『新三匹の侍』では安藤昇、高森玄〈タカモリ・ゲン〉、長門勇の三人だったが、長門を除けば大根ばかりで不評のために直ぐに打切りになった。演技によって俳優の凄味は作られるが、凄味を地でいったのは安藤一人だった。何故安藤を起用したかといえば松本常保とマキノ雅弘は渋谷道玄坂を縄張りにしていた花形敬〈ハナガタ・ケイ〉と親しい関係にあり、やくざの世界の人脈がまだ生きていたからであろう。大映の永田〔雅一〕はこうした人脈を嫌っていたが、その永田をしてどうしても切り捨てられなかったヤクザがいた。笹井栄次郎である。その笹井の子分が上田躬荘〈キュウソウ〉である。上田は新興キネマの用心棒兼一部俳優のマネージャーをしていた。青山光二の『顔斬り』の証言をしたのは上田である。上田は新人俳優を捜すのが得意で若き日の勝新太郎や若山富三郎を永田の前に連れて行ったのは上田である。勝は永田が入社を許したが、若山は気に入らなかったようで、憐れに思った田中〔ママ〕が笹井末三郎を通して大蔵貢に紹介し、デビューは新東宝の『里見八犬伝』だった。のちに若山が大映に移籍する際、この経緯があったから城健三郎と芸名を変えさせた。若山が拳銃不法所持で逮捕され、新東宝を首にされると救いの手を差しのべたのは松本常保で『三匹の侍』第4シリーズで一度だけ使い、その直後に東映の『極道』が当たり役になった。宮城千賀子や清川虹子のバックアップがあったからだといわれている。上田は戦時中に女優の高山広子と結婚し、〔高山は〕『維新の曲』〔一九四二〕や『二等兵物語』にも出演したが、壊疽〈エソ〉にかかって片足を切断し、松竹の『いも侍』〔一九六五〕に出演したのを最後に芸能界を去った。大映の所在地を多藪町〈タヤブチョウ〉というがその門前に上田夫妻の家があり、拙が学生のころ、高山広子とは行きつけの喫茶店で会った。何度か言葉を交わしてたことがあるが、有名な女優であったことを知ったのはそれよりもずっと後のむことであった。上田躬荘のことは何一つとして知らなかった。そのことを拙に語ってくれたのは大映の島田竜三だった。上田は千本組分家の栄次郎の唯一の舎弟で本家や映画界とも結びつきがあった。そのために長谷川一夫事件についても真相を知る立場にあった。543

 僭越ながら、少し注釈する。青山光二の『顔斬り』というのは、作家・青山光二(一九一三~二〇〇八)が一九七二年(昭和四七)に発表した小説で(三笠書房刊)、長谷川一夫顔斬り事件(一九三七)をモデルにしているとされる。
 高山広子は、一九二七年(昭和二)にデビューした映画女優で、一九四三年(昭和一八)に、上田躬荘と結婚。ウィキペディア「高山廣子」には、一九一九年(大正八)生まれで、没年不祥とある。

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