礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

戦中戦後体制連続論と「国語改革」(ふりがな廃止問題など)

2012-11-10 04:46:17 | 日記

◎戦中戦後体制連続論と「国語改革」(ふりがな廃止問題など)

 今月六日に、河上肇の「特志の大学生」事件を取り上げたが、この日は予想通り、反応はきわめて低調であった。ところが、翌七日に「河上肇の文章術」を取り上げると、この日は一転してアクセスが急増し、ブログ開設以来八位(たぶん)という高位置に付けた。つくづく読者の反応は予想しがたいと思う。しかし、河上肇だから低調ということはないということが確認できたことは収穫であった。
 八日には、山本有三の「ミタカの思い出」を紹介したが、反応はガッカリするほど低調。昨九日、「ふりがな規制」が戦中の一九三八年(昭和一三)に始まっていたことを紹介すると、かなり持ち直した。アクセス数の多寡で一喜一憂するのはおとなげないが、一応、反応のご報告ということで。
 山本有三のふりがな廃止論については、もう少し補足したいことがあるので、今日はそれを述べる。
 山本によれば、単行本『戦争と二人の婦人』(岩波書店、一九三八)の末尾に、「この本を出版するに當って―國語に対する一つの意見―」という文章を付したところ、その反響が大きかったため、同年中に、白水社編で同社から、『ふりがな廃止論とその批判』という本が出た。単行本『戦争と二人の婦人』は、その翌年、岩波新書の一冊『戦争とふたりの婦人』として同時刊行されるが、その際、山本が、白水社編『ふりがな廃止論とその批判』に、「まへがき」として書いた文章(最後に「昭和十三年十一月」とある)が付された。それが、「『ふりがな廃止論とその批判』のまへがき」である。
 以下に、その「『ふりがな廃止論とその批判』のまへがき」から、引用してみる。
 山本は、「まへがき」の冒頭で、自分の「ふりがな廃止論に」に対し、半年の間に一四〇余篇もの批判があって驚いたと述べ、さらに次のように書いている(一七三~一七五ページ)。

 しかし、私の驚きはそれたけではありません。先月〔一九三八年一〇月〕すゑ、内務省警保局では幼少年雜誌の編集者を呼んで、それらの雜誌では、今後ふり假名を廃止するやうにといふ申渡しをいたしました。これは實に大英断で、主唱者である私でさへも、びっくりしたくらゐです。
實をいひますと、私たち七八人の者も、わが軍が漢口の一角に突入したといふ号外の出た日に〔漢口は、武漢三鎮のひとつ、武漢三鎮の陥落は一〇月二七日〕、警保局に招かれて、幼少年雜誌に対する意見を徴せられました。その日の議題にはふり假名ははいってゐたかったのですが、小さい活字を制限する條項を討議した時、おのづからふり假名が論せられるやうになったのです。私としては、さういふ席上で他の方々によって、この問題が取りあげられたことを、非常にうれしく思ひました。そこで大いにその實行を切望したのですが、しかし、これを断行するとなると、例外の場合も考へなければなりませんし、その他いろいろの問題がありますから、学者と實際家を集めて、研究調査を行った上で、實施されたいといふ意見を述べたのです。しかし、問題が大きいために、これはその日決定を見なかったので、私は當然あと廻はしになるものと思ってゐました。ところが、二三日後、ある雜誌の記者が見えて、「内務省もなかなか新しいですね。幼少年物はふり假名が廃止になりました。」といふのです。けれども、私は容易にそれを信じませんでした。「このあひだの會合で、それが問題になったことは事實だが、まだ、そこまでは行かないいはずだ。」と私は答へたのです。
 それから一両日して、警保局からプリントが届きました。幼少年雜誌の発行者に交附したものと同じ刷りものです。それを見ると、「廃止すべき事項」の中に
 振假名ノ使用――但シ特殊ノモノ、固有名詞ハコノ限リニ非ズ
と、いふ文字がはいってをります。刷りものを持つてゐた私の手は思はずふるへました。私はすぐ警保局の圖書課に電話をかけ、どうして、こんなに早く實施することになったのかと尋ねました。正當な趣意のものであるから断行したのであるといふのが、その答へでした。さうして、一方において、小さい活字を制限する以上、ふり假名もまた、その中に入れるのは當然だといふのです。私はふり假名廃止論の主唱者ではありますが、警保局の腹のすわり方は、私以上です。私としては発令の前に、もう少し研究討議の時聞をおいてもらひたかったと思ひますけれども、當局物として、これは正しいものであるといふ見とほしをつけたからには、直ちに實行に移すことも、現在のやうな時勢にあっては、一つの方法なのでせう。

 山本の文章はさらに続くが、とりあえず引用はここまで。
 近時、戦中体制と戦後体制の連続ということが言われている。福祉厚生・農地改革・労働者保護など、戦後におこなわれた改革の芽は、戦中における諸統制にあったというのが、その趣旨である。今、この議論の当否について論じることはできないが、戦中戦後体制連続論の立場に立った近現代史の本が、岩波書店などから次々と刊行され(それを代表するのが、岩波新書の雨宮昭二『占領と改革』二〇〇八)、大きな論争を経ることなしに、いつの間にか「主流」となっていることには、違和感を禁じえない。
 ただし、この戦中戦後体制連続論に、一面の真理があることは間違いない。「国語改革」という問題なども、そうした観点から再考する余地があろう。二・二六事件の直後に、漢字廃止論者が文部大臣に就任したり(一〇月三日のコラム参照)、武漢三鎮の陥落に前後して、幼少年雑誌のふりがなが廃止されたりしていることの意味は、客観的かつ冷静に考察してみる価値があると思っている。

今日の名言 2012・11・10

◎内務省もなかなか新しいですね

 内務省警保局が、幼少年雑誌のふりがなを廃止した措置(1938年10月)に対して、ある雑誌記者が述べた感想。『戦争とふたりの婦人』(岩波新書、1939)の174ページに出てくる。上記コラム参照。

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