礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

國體論は立憲思想を抑圧せんが為の仮名(美濃部達吉)

2024-05-08 05:17:39 | コラムと名言

◎國體論は立憲思想を抑圧せんが為の仮名(美濃部達吉)

 鈴木安蔵の論文「美濃部博士の憲法学説問題」(初出、『社会評論』1935年4月)を紹介している。本日は、その四回目で、「二」の節の後半を紹介する。

 立憲主義的学説は、かゝる憲政擁護運動に刺衝され、支援され、且つまたその理論的指針として、何ら妨害さるゝところなく主張され、肯定された。議会主義は、かゝる側面の人士の常識となつたのである。例えば、当時の一著を見よ。
 「立憲政体ならざる君主国は専制君主国なり」「国民の自由、権利、死活の問題、悉く君主の意思に依りて決し、君主を離れて国民なく、君主は国民のために存在するにあらず、国民は君主のために存在するものなり。これ恰も野蛮時代に屡々発見する厳格なる家長制度の下に生活する家族に於けるが如し」「されど立憲君主国に於ては如何に幼稚なる制度にせよ、必ず統治権運用の方法に就き一定の規定ありて妄りに侵すべからず」「立憲君主国に於ては、為政者の専制独裁を防ぐがために議会の設立あり」「議会が実際立法権を所有する場合には、国民の輿論は能く議会を経て代表せらるゝ が故に、国政の方針は国民の意思に依りて決定せらるべし」(明治四十五年二月発行、植原悦二郎「通俗立憲代議政体論」四五~四七頁)。
 桂内閣は忽ちにして壊滅した。山本〔権兵衛〕新内閣は、世論に対する譲歩として、政友会の対策実行を約しまた陸海軍大臣を予備後備の大中将にまで範囲を拡張した。
 宮中府中の別を紊れ〈ミダレ〉りとして桂を攻擎した潮流が、これに関連して、宮内省の改革を論じたのもこの際である。また市村博士が、上杉博士の「勅語は一切の批評を超越す」、「唯だ勅語たり、故に億兆日本人之に依遵して違はざるなり」とせるのに対し、次のごとく論駁したのも此の時である(「太陽」第十九巻六号)。
 「凡て〈スベテ〉国家の機関が表示する国家意志には、形式上効力の差等あり、憲法の効力を第一とし、皇室典範之に次ぎ、法律之に次ぎ、勅令之に次ぐ、憲法は天皇の欽定せられたる所、法律を立つるの権は、憲法第五条に依りて天皇之を有せられ、勅令は議会の協賛なくして天皇自由に之を定め給ふ。然れども制定の手続きと名称とを異にするが故に、其内容に抵触ある場合には、一を棄てゝ他に依らしむる目的を以て『命令を以て法律を変更する能はず』と云ひ、又『皇室典範を以て憲法の条規を変更することを得ず』と規定し、また裁判所に認むるに、命令の実質を審査し、法律に違反する勅令其他の命令は之を適用すること勿ら〈ナカラ〉しむ。若し一部論者の云ふが如く、詔勅は詔勅たるが為めに絶対の拘束ありとせば、法律も、憲法も、其存在を失ふに至るべし。此の如きは『王の欲する所是れ法なり』とウルピアヌス〔Ulpianus〕の云ひたりけん、羅馬〈ローマ〉の帝政時代か、又は中世の家産国家に於ては、初めて運用すべけんも、今日の立憲国には適用せざる議論なり。」
 美濃部博士は、この前後(大正二年三月四日「東亜之光」誌上)「國體論が、騒がしく論ぜられて居つて」「人心の傾向がさも一大危機に瀕して居るかの如く絶叫して居る者が有る」しかしながら、「其の実は、彼等國體論者は、影なきに影を見た徒〈イタズラ〉に空騒ぎを為せるに止まるのである」だが、「如何に空騒ぎにもせよ、兎も角も〈トモカクモ〉、昨年〔1912〕来の如く國體論が盛に起つて今日迄其の余勢が衰へないのは、多少の理由が無ければならぬ」「外でもない、一言を以て曰へえば、余は一部の学者及び政治家の間に存する『反立憲的思想』に在ると思ふ」「近来に至つて国民の政治的自覚が稍〈ヤヤ〉進み、憲政の本義が稍国民の間に了解せられんとするに至つて、此の立憲政治に対する反動思想は茲に『國體論』の名を藉りて世を騒がすに至つたので、其の所謂國體論は、其の実は、唯立憲思想の普及を抑圧せんが為の仮名に過ぎぬ」(「所謂國體論について」――「時事憲法問題批判」所収)と言はれた。
 繰り返して力説する。上杉博士の対天皇機関説論戦は、上述のごとき護憲運動の勝利、立憲主義学説の制覇、議会主義の普及に対する旧勢力の焦慮と苦悩との理論的反映であり、新勢力克服のための理論闘争であつた。それは史的必然性をもつた新興勢力を克服せんとしたのであるから、それ自身は勢い超科学的となる外はなかつたのである。
 けれども、我が国のブルヂョアジーには、当時、旧勢力と徹底的に闘争する力は全然なかつた。同じ官僚藩閥的に本内閣と政友会は妥協した。民主主義を徹底的に要求し、確立し得る労働者農民の結集は未熟であつた。護憲運動に動員されたブルヂョア層は孤立分断のままブルヂョア政党に利用され放棄された。旧勢力、旧機構は、部分的敗北、局部的形態変化の後、依然として政権の重要なる実質的運用者であつた。組織されず、解放されぬ労働者農民小市民は、依然として、旧勢力的政治の下に、半ば無自覚な存在をつゞけたのである。
 これ前述のごとき主権論争、議会思想論争に関連して、後年故吉野〔作造〕博士が、次ぎのやうに言はれたゆゑんである。曰く「学界に於て最早疑いがないとされて居ることがすべて実際政界に於ても同様に疑いないとされて居るかといへば、我々は今更乍ら大に幻滅の感を抱かざるを得ない」(昭和四年十一月、「憲法と憲政の矛盾」――「現代政局の展望」所収)
 大正七年〔1918〕には、デモクラシーは主権在民を主張するものであるとの見地から、浪人会、黒龍会等は吉野博士の民本主義を論駁して、エピソード的な十一月の立会演説となつた。

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