礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

原節子さんとドクター・ハック

2015-02-18 05:08:28 | コラムと名言

◎原節子さんとドクター・ハック

 昨日の続きである。中田整一氏の新刊『ドクター・ハック』(平凡社、二〇一五年一月)は、日独防共協定の締結(一九三七)から大戦末期の終戦工作(一九四五)まで、日本の運命に関与したフリードリッヒ・ハック経済学博士、通称「ドクター・ハック」の生涯を描いたノンフィクションである。
 この本は、次の一一章からなっている。

序 章 神戸港に降り立った密使
第一章 フライブルク
第二章 二つの顔――武器商人と秘密情報員
第三章 原節子と「武士の娘」
第四章 二・二六事件と日独接近
第五章 運命の岐路
第六章 漏洩した日独の秘密
第七章 スイスの諜報員
第八章 和平工作とハック
第九章 刀折れ矢尽きて
終 章 ハックの遺言

 ここに「原節子」の名前が出てくるを見て、意外の感を持たれる方もおられるだろう。女優の原節子さん(一九二〇~)とドクター・ハックとの間には、実は、浅からぬ結びつきがあったのである。
 一九三六年(昭和一一)二月八日、ドクター・ハックは、アーノルド・ファンク監督を中心とする日独合作映画の撮影隊の一行とともに、日本郵船の貨客船・諏訪丸で神戸港に到着した。このときの彼は、表向き、これから撮影する映画のプロデューサーということになっていた。
 しかし、その実、彼は、ベルリンの日本陸軍駐在武官である大島浩から、重大な政治的使命を託されていた。すなわち、日独防共協定のための根回しである。
 さて、この日独合作映画であるが、最初の立案者は、日独協会理事の酒井直衛という人物だったという。酒井がそのことについて、ハックに相談を持ちかけたところ、ハックは非常に乗り気になり、旧知のアーノルド・ファンク監督を紹介するという形で話が進んでいった。
 二月八日、ドクター・ハックとともに日本の土を踏んだアーノルド・ファンク監督は、その翌日、早くも京都のJ・Oスタジオの見学に向かう。そしてそこで、原節子さんに出会うのである。このとき、原さんは一六歳であったが、すでに女優で、山中貞夫監督の『河内山宗俊』の撮影のため、スタジオセット内にいた。このときの出会いがキッカケで、彼女は、日独合作映画のヒロインに抜擢されることになった。
 なお、この「日独合作映画」は、最終的に、ドイツ版と日本版という二つの作品が作られるということになった。ファンク監督は、日本で伊丹万作監督に協力を要請したが、途中から、両監督の間で意見が衝突するようになり、ドイツ版はファンク監督が完成させ、日本版は伊丹監督が完成させるということになった。その意味においては、この映画は、「日独合作」というより、「日独競作」と言ったほうがよいのかもしれない。
 ドイツ版のタイトルを『武士〈サムライ〉の娘』と言い、日本版のタイトルを『新しき土』と言った。ちなみに、ドイツ版のタイトルは、ドクター・ハックが付けたと言う。
 以上は、『ドクター・ハック』の序章、第二章、第三章を参照しながら、まとめたものである。詳しくは、同書を参照されたい。
 いずれにしても、日独合作映画という企画がなければ、アーノルド・ファンク監督が日本にやってくることはなかったであろう。ファンク監督が、映画のヒロインに原節子さんを抜擢しなければ、彼女が、のちに大女優として成長してゆくことはなかったかもしれない。
 そして、この映画の監督として、アーノルド・ファンクを紹介したのは、ドクター・ハックであった。ハック自身も、この映画の「プロデューサー」として、撮影隊の一行とともに来日している。というわけで、ドクター・ハックと原節子さんとの間には、やはり、浅からぬ結びつきがあったということになるのである。

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