礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

カナモジ・タイプライターの特許をめぐって

2014-02-19 04:18:31 | 日記

◎カナモジ・タイプライターの特許をめぐって

 本日は、下村海南「スチックネーとカナモジ・タイプライター」という文章の後半部分を紹介する。

 山下〔芳太郎〕君はカナモジ・タイプライターをつくるため、ヨーロッパからの帰りみちにニューヨークに立ちより、不治の病苦をおしてスチックネー氏と打合せをつづけた。
 山下君は前からタイプライターのキイの配置を定めるために、数知れぬほどの書籍、新聞、雑誌などから、何百満字といふ統計をとつて、アの字は何回、オの字は何回、ルの字は何回と、五十音字のそれぞれ使用される度数をしらべた。
 さらにタ行の音は、カ行の音とよくつづくとか、ツの音はエの音とはつづかないとか、シの音とカの音はよくつづくとかいふことを、さういふ統計からわり出して、カナ文字のキイを、縦横にどう配列したらよいかと、想像以上の細かい調査研究をした。山下君がスチックネーとキイの配置や、カナ文字の字形をきめるため、いかに研究をこらしたか、たとへば「ミ」のカナ文字は三とまぎらはしいとか、ゼロの○とアルファベヅトのO、また数字の1とアルファベットのエルのlが似てるとか、数日を重ねて議論を戦はし、不治の病苦の中で殆んど食餌の通らぬ山下君は、あのカナモジ・タイプライターの文字の配置をさだめ、帰朝後間もなく亡くなられたのである。

 この下村海南の文章を読んで、私ははじめて、山下芳太郎が「カナモジ・タイプライターの文字の配置をさだめ」たということを知ったのである。
 ところが、ウィキペディアで「山下芳太郎」の項を見ると、次のようにある。

 1922年4月には、仮名文字協会が発行する雑誌『カナ ノ ヒカリ』第3号に、カナモジタイプライターのキー配列の案を発表した。さらに、1922年8月には『国字改良論』第4版にキー配列の第2案を発表した。/ジュネーブで開かれた国際労働機関の総会ののち、山下芳太郎は、病をおしてアメリカ合衆国にわたり、アンダーウッド・タイプライター会社を訪れた。設計部長のバーナム・クース・スチックニーとカナモジタイプライターの書体およびキー配列についてうちあわせをし、1923年1月、議論のすえに決めたキー配列のタイプライターを発注した。(しかしながら、キー配列はタイプライターの製造にあたってさらに変更された。実際に製造されたカナモジタイプライターのキー配列は、1923年2月に出願されたアメリカ合衆国特許1,549,622号のものである。そして、その明細書に記された発明者はスティックニーただひとりである。)

 山下芳太郎が蓄積してきた研究の成果は、すべてスチックネー(スチックニー)に奪われてしまったことになる。もちろん、スチックネーにも言い分はあるだろう。星野行則が書いているように、スチックネーもまた、以前からカナ文字の研究を続けていたのである。また、特許出願の際には、山下芳太郎との議論で合意に達したキー配列に、変更を加えたという言い訳も用意していたであろう。
 山下が不運だったのは、当時の日本に、自国でカナモジ・タイプライターを製造する技術がなく、アメリカのタイプライター会社に相談するしかなかったこと。たとえ日本に技術があったとしてもまた、カナモジ・タイプライターの将来性を認めて、製造を引き受けてくれるような企業がなかったこと。さらに、不知の病に犯されており、「特許」の帰属という問題まで、頭がまわらなかったことであろう。
 それにしても、「スチックネーとカナモジ・タイプライター」という文章を書いた下村海南は、カナモジ・タイプライターのキー配列の特許が、スチックネーただひとりに帰属しているという事実を把握していたのだろうか。

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