礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

被支配者は、服従するのでなく隷従する(ラ・ボエシー)

2013-07-14 05:09:34 | 日記

◎被支配者は、服従するのでなく隷従する(ラ・ボエシー)

 昨日の続きである。ルネサンス期のフランスの文人ラ・ボエシーの「自発的隷従を排す」という論文をから。
 以下に引用するのは、昨日、引用した一節のすこしあとにある部分である。

 しかし、おお神よ、それは実際どういうことなのか。それがどう呼ばれたらよいとわれわれは言うべきなのか。これはどういう不幸であるか。どういう悪徳であるか。またはむしろどういう不幸な悪徳であるか。無数のひとびとが服従するのでなく隷従する光景は。彼等は統御されるのでなく圧制を受け、財産も、親も、妻も子も持たず、彼等のものである生命さえも持っていない。掠奪、淫蕩、残虐行為を数々蒙るが、それは軍隊によるものでもなく、それに対して進んで自らの血と生命を支払ってしかるべき蛮族の部隊によるものでもなく、ただひとりの人間によるものなのだ。それもへラクレースのような者、サムソンのような者によってではなく、大抵の場合、国民の中で最も卑怯で女々しいたったひとりの小男によってなされるのだ。この男は、戦闘の砂ぼこりにも武技試合の砂にまみれる苦しみにも慣れていない。男たちに力づよく命令を下すことのできるような人間ではなく、最もつまらぬ小女に下劣な態度で仕えることにかかりきるような男たのだ。このようなことを卑怯とわれわれは呼ぶべきだろうか。そうして隷従している連中を臆病者、腰ぬけであると言うべきだろうか、もしふたりが、三人が、四人が、ひとりに対して身を守り得ないとしても、それは奇妙でははあるがしかしあり得ることだ。そのとき、ひとは、まさしく、それは勇気の欠除であると言うことができよう。しかし、もし百人が、千人が、ただひとりのことを、耐えしのんだとすれば、彼等は彼に対して敢えて攻撃に出ようとしないのではなく、そう望まないわけなのだ。そしてこれは、臆病なのではなく、むしろ軽視、または蔑視であるとひとから言われるかもしれないが、しかし、百人でなく、千人でなく、百の地方、千の都市、百万の人間が、すべてのひとびとの中で最もよく扱われている者でさえその奴隷であるという損害を受けているそのひとりの人間を攻撃してかかるのがもし見られないならば、これをわれわれは何と呼べばよいのか。これは卑怯というものではないか。

今日の名言 2013・7・14

◎無数のひとびとが服従するのでなく隷従する

 ラ・ボエシー「自発的隷従を排す」に出てくる言葉。権力の本質をついた言葉であろう。こういうことが、すでに16世紀に言われていたとは! 上記コラム参照。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ラ・ボエシー「自発的隷従を... | トップ | エチエンヌ・ド・ラ・ボエシ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事