礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

エチエンヌ・ド・ラ・ボエシー(1530~1563)の紹介

2013-07-15 06:54:20 | 日記

◎エチエンヌ・ド・ラ・ボエシー(1530~1563)の紹介

 一昨日、昨日と、ラ・ボエシーの「自発的隷従を排す」という文章を紹介した。
 この文章の紹介は、このあとも続けたいが、ここで、ラ・ボエシーの人物像を紹介しておこう。
 以下は、世界文学大系74『ルネサンス文学集』(筑摩書房、一九六四)の巻末にある「解説」の一部である。この部分の執筆は荒木昭太郎氏。

 中都フランスの町サルラの人エチエンヌ・ド・ラ・ボエシーEtiennne de La Boétie(一五三〇~六三)は、オルレアンその他で法学、人文学を学び、若くしてその学識をうたわれた。一五五四年にボルドー最高法院評定官となり、三年後にミシェル・ド・モンテーニュを同僚に迎え、かたい友情を結ぶ。死後原稿がモンテーニュに渡され、その手によってクセノフォンとプルタルコスの翻訳が出版された(一五七一)。彼にはフランス語ラテン語の詩作もあり(一五七一)、また、新旧両教の政治的争闘はフランスを荒廃させると警告し、旧教派の内部改革を説いた『一五六二年正月の勅令に関する覚書』(一九一七刊)もあるが、やはりこの『自発的隷従を排す』によってその名をのこした。これは若い頃に発案執筆され(本文三二九ぺージ注(5)参照)、へロドトス、プルータルコス、タキトゥスなどの古代作家から得た題材を一般論的に展開して、圧制を否定し、自由を擁護し、圧制に慣れた民衆の無気力を叱責する小論文である。君主の策略を指摘しこれを非難している点などから、マキアヴェルリの所説への反論を動機と考える説もある、しかし、この時代の情勢の中に圧制的要素を見出して発想の起点としたにせよ、彼が具体的な直接的な否定の対象を現実のフランス王たちの中に見たかどうかは疑問である。モンテーニュ自身これは「ごく若い頃試論として書かれた」(『エッセー』第一巻第二十八章)と言っており、刊行を予定していたようであるが、無益な誤解と争論をひき起こすことを警戒したためか、事を控えた。【以下略】

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