礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

我天皇は統治権の総攬者ではなく統治権の主体(上杉慎吉)

2024-05-09 01:02:45 | コラムと名言

◎我天皇は統治権の総攬者ではなく統治権の主体(上杉慎吉)

 鈴木安蔵の論文「美濃部博士の憲法学説問題」(初出、『社会評論』1935年4月)を紹介している。本日は、その五回目で、「三」の節の前半を紹介する。

        
 美濃部博士の学説は、しからば如何なるものであろうか! それは前回の論争の際にも、博士自身反覆弁明され、今回屡々繰り返されてゐるやうに、所謂君主々権説、すなはち、「国家統治の大権が天皇の御一身上の権利であると解するならば統治権が天皇の御一身の利益の為に存する力であるとすることに帰する」「見解」に対する反対を骨子としてゐる。(二月二十五日貴族院本会議における演説)
 かかる君主々権説は、「唯君主と国家とを同一視して、君主即ち国家なりとするか、又は国家を以て君主の統治の目的物であるとするかの何れか一途〈イット〉あるのみ」(「憲法学説弁妄〈ベンボウ〉」――帝大新聞昭和九年月十二日)に帰着する。だが、かゝる所説は、博士の実証的立憲主義的見地の認容しがたいところである。けだし、君主即ち国家なりといふことは、その文字通りの意味では科学的論証に堪へぬ。「国家は君民の団体であつて君主も国民も共に国家を構成する要素である。」(同上「弁妄」)したがつて、君主即国家が妥当するとすれば、それは超科学的超理論的意義において解釈された場合でなければならぬ。例へば故上杉博士は言つた。
 「我天皇は独逸諸国の君主の如く単純なる統治権の総攬者ではなくして統治権の主体であります。統治権は天皇の権力であつて、統治権の目的は全部天皇の目的であります。此の意味を示すが為に天皇即国家なりと申す事が出来ます。」「国家は租税を取立てる、国家は裁判を行ふ、国家は人民を保護すると申しますれば、我国に於て国家と云ふのは天皇の意味である。天皇が租税を取立てられ天皇が裁判を行はせられ人民を保護せらるゝのであります。国家の為に尽すと言へば天皇の為に御奉公申上げることである。〔中略〕国を愛すると云ふことゝ君に忠と云ふことゝは合致して離れざるのが我國體の精華であつて、国家の生命は天皇と終始して離れない、天皇亡ぶれば国家亡ぶるのである、此種々の意味を天皇即ち国家であると一言に申すのであります」(「帝国憲法述義」二三六~二三八頁)。
  そして今日、君主機関説を國體無視なりと糾弾する人々は、右のごとき意味で天皇主権説に、憲法学説を統一せんとしてゐるのである。
 「国家をもつて君主統治の目的物である」とする見解も、これと本質を等しくする。すなはち、それは、国家、国民が、ひとへに服従奉公のためにのみ存在するもの、君主の大権は絶対万能無制限なりと見なすのであるが、これ、美濃部博士の「国家を以て活力なき死物となすもの」として排斥するところである(前掲「弁妄」)。そして、君主の大権も「憲法の規定に従つて行はせなければならぬものであるといふことは明々白々に疑ひを容れるべき余地もない」(二月二十五日の前掲博士の演説)と論断するのである。【以下、次回】

 こまかいことだが、最初の「如何なるものであろうか! それは」というところは、初出では、「如何なるものであろうか?それは」となっていた。ここでは、『明治憲法と新憲法』(世界書院、1947年4月)における表記に従っている。

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