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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「意味」は関係として考えるべきである(三浦つとむ)

2020-12-28 04:38:04 | コラムと名言

◎「意味」は関係として考えるべきである(三浦つとむ)

ミリオン・ブックス版『日本語はどういう言語か』から、第二部第一章「日本語はどう研究されてきたか」を引用している。本日は、その三回目(最後)。

  3 時枝誠記氏の「言語過程説」
 昭和に入ってから、時枝誠記氏によって「言語過程説」とそれに基づく日本語の研究が提出されましたが、これは天文学におけるコペルニクスの出現にも似た重要な意義を持つものであって、国語学ばかりでなく言語学においても一つの新しい時代を画するできごとだと云わなければなりません。その学説の詳細は、昭和十六年の「国語学言論」にまとめられています。
 これまでの言語学では、言語を一つの道具として理解していました。頭の中に道具があって、これを使って考えこれを使って思想を伝達すると考えるのです。この道具は、概念と聴覚映像とがかたく結びついて構成された精神的な実体と説明され、「言語」または「言語の材料」と呼ばれています。時枝氏はこの言語構成観あるいは言語実体観をあやまったものとしてしりぞけ、対象―→認識―→表現の過程的構造をもって言語の本質であると主張したのでした。この意味でその学説は言語過程説と名づけられています。
 「言語過程説は、我が旧き国語研究史に現れた言語観と、私の実証的研究に基く言語理論の反省の上に成立し、国語の科学的研究の基礎観念として仮説せられたものであつて、いはゞ言語の本質が何であるかの謎に対する私の解答である。」「過程的構造にこそ言語研究の最も重要な問題が存するのである。」(時枝誠記「国語学原論」)
 時枝学説に対して言語学者は否定的であり国語学者の間でも賛否両論があります。しかし、たとえ何人の手によって提出されたにせよ、「過程説」のうまれたことは歴史的な一つの必然として考えられなければなりません。世界はできあがった諸事物の複合体としてではなく、ある「過程の複合体」としてとらえるべきだ、というのは、ヘーゲル哲学の革命的な見かたであり、この弁証法的な世界親は現在の科学によって確認されています。言語過程説の提出は、とりもなおさず弁証法的言語観の出現を意味しています。ところで、この言語観の出現にあずかって力のあったものは、一方では時枝氏ものべているように日本の古い国語学者たちのもっていた素朴な言語観であり、また他方ではヘーゲル哲学の流れをくんでヨーロッパの哲学者たちによって論じられた「現象学」の中にふくまれている弁証法的な考えかたでした。時枝氏が思想の構造について理解するために「現象学」の助けを求めたということは、プラスの面ばかりでなく、その限界乃至観念論としての欠陥を言語過程説の中へもちこんだというマイナスの面をも持つていることは事実であり、これが言語過程説を否定する人たちの理論的根拠になっているようです。わたしたちはこのマイナスの面を克服し、プラスの面を正しく発展させなければならないと思います。
 時枝氏の理論が、それまでの理論にくらべて優越した点としては 
  一、言語を過程的構造においてとりあげたこと。
  二、語の根本的な分類として客体的表現と主体的表現の区別を採用したこと。
  三、言語における二つの立場――主体的立場と客体的立場――の差別を問題にしたこと。
があげられます。また欠陥としては
  一、言語の本質を「主体の概念作用にある」と考えたこと。
  二、言語の「意味」を「主体の把握のしかたすなわち客体に対する意味作用そのもの」と考えたこと。
  三、言語表現に伴う社会的な約束の認識と、それによる媒介過程が無視されていること。
  四、認識を反映と見る立場が正しくつらぬかれていないこと。与えられた現実についての表現と、想像についての表現との区別およびその相互の関係がとりあげられていないこと。ここから主体的立場の規定も混乱していること。
などが指摘できます。
 時枝氏が言語を過程においてとりあげようとしたこと、そのことは正しかったのですが、 だからといって言語と言語活動が同一だということにはなりません。時枝氏の「意味」についての誤解は、この混同をもたらす結果になりました。音声や文字は、それ自体物理的な空気の振動であり石の上にできた亀裂のようなもので、そこに「意味」はない、と考えたのです。ではどこに「意味」があるか? 言語の過程としては、対象が必要であり、概念もつくられますが、これらが表現のあとで消え失せてしまっても、音声や文字は言語としての資格を失いません。これらは言語の成立条件であっても言語の構成部分ではないのです。すると、対象・認識・表現のいずれも「意味」ではなく、それら以外に「意味」を求めなければならなくなります。そこで時枝氏は、この表現を行う主体の活動そのもの、すなわち対象を認識するしかたを「意味作用」とよび、話し手書き手の活動そのものが「意味」であると結論しました。なるほど、対象―→認識―→表現の過程の中で、どこかに「意味」とよばれるような実体がないかとさがしても、それにあたるようなものがないことは事実です。何かの実体を「意味」と考えたこれまでの言語理論がまちがっていることもたしかです。時枝氏が実体を「意味」と考えてはならぬと主張したことは正しかつたのですが、「意味」のありかたを実体から機能にうつしたことはまちがいでした。「意味」は機能としてではなく、関係として考えるべきだったのです。音声や文字は、それらが創造されるまでの過程的構造と、それらの創造されたかたちにおいてむすびついています。この関係そのものは目に見えないために、見のがされてしまったのでした。音声や文字のかたちは、その過程的構造との関係において、すなわち音声や文字は表現形式と表現内容との統一において理解しなければならないと、言語過程説を訂正する必要があります。
 言語道具観が、表現のための社会的な約束の認識を「言語」又は「言語の材料」と考えたのはまちがいです。時枝氏は言語道具観を否定して、個々の具体的な言語以外に言語はないと主張しました。これは正しかつたのです。けれども言語道具観のとりあげた「言語」又は「言語の村料」の正体が何であるかを明らかにすることができず、これを否定したために、言語道具観の支持者を充分に説得することができませんでした。聞き手が、耳にした音声から話し手と同じような概念を思いうかべる事実を、時枝氏も認めます。これが社会的な習慣として成立していることも認めます。しかしその習慣が成立し保持されていることの基礎を、表現上の社会的な約束を認識している点に、すなわち「言語」又は「言語の材料」と解択されている抽象的な認識に求めるのではなく、「本質的には、個人の銘々に、受容的整序の能力が存在する」(同上)からだと、個人的な能力に基礎づけたところに、まちがいがありました。ここに、言語過程説は個人主義的、心理主義的な学説だという非難が浴せられる一つの根拠があったのです。
 時枝氏は言語過程説に基づく日本語の文法体系を提出しました。理論の長所も欠陥も、そこに具体的なかたちをとってあらわれています。これからわたしの説明と、時枝氏のそれとを比較してくださるなら、その長所も欠陥もよく理解していただけると思います。

『日本語はどういう言語か』の「日本語はどう研究されてきたか」の章は、ミリオン・ブックス版でも講談社学術文庫版でも、内容に大きな違いはない。
 三浦つとむは、本日、引用した部分で、時枝誠記の学問を高く評価しながらも、その「言語過程説」は、訂正する必要があると言っている。このあたりは、半世紀前に読んだときも、よくわからなかったが、いま、改めて読んでみても、やはり、よくわからない。というより、三浦の時枝批判を、どこまで信用してよいのかが、よくわからないのである。この問題については、来年も、引き続き、研究課題としたい。

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