◎中谷宇吉郎の「雪と戦争」(1945)を読む
一九四五年(昭和二〇)四月に、生活社が刊行を開始した「日本叢書」というシリーズがある。
その第一冊は、中谷宇吉郎(なかや・うきちろう)の『霜柱と凍上』である。全三二ページ、定価五〇銭。
その二九ページから三一ページにかけて、「雪と戦争」と題する短い文章が載っている。本日はこれを紹介してみよう。内容から見て、一九四五年(昭和二〇)の初めごろに書かれた文章ではないかと思われる。
雪 と 戦 争
今年の冬は何十年振りの大雪であつた。寒さも勿論厳しくて、平均気温を見ても、十二月のうちに既に昨年の最低気温を突破した所も沢山ある。
今年は雪が何故多かつたかといふことは、二三の気象学者にきいてみたが、本当のことはよく分らないらしい。もちろん北極地方から出て来る冷い大気の異常現象によるには違ひ ないが、その方面の気象がよく分らないめであらう。北半球の比較的高緯度に近い地方の冬の気候条件は、結局は北極の気象を究めなければ分らない。
ソヴイエート政府は早くからその点に着目して北極の気象の研究には随分力を入れてゐる。昭和十二年〔一九三七〕五月、ソ連の政府はパパーニン外三名の学者を飛行機で北極に運んだのである。四台の飛行機は北極の浮氷の上に着陸し、これ等四人の学者が一年間北極の氷の上で生活し、気象の観測と通報とを完全に続け得るだけの衣食住の資料と研究用具とを無事届けて帰つて来た。その飛行機が無事任務を終つてモスコーに帰還した日から十二日目に、蘆溝橋事件が起きたのである。
雪、氷、低温に関するソ連の研究は、この時に始つたものではない。レーニンが政権を得た直後、また国内では到る処で白系軍との戦〈タタカイ〉が続いてゐた頃、先づ作つたものは、北極並に低温科学一般に関する研究であつた。大正九年〔一九二〇〕の尼港〈ニコウ〉事件〔ニコラエフスク事件〕といへば旧い〈フルイ〉昔の話であるが、その前年〔一九一九〕ぐらゐから既に低温の研究が国策として始められてゐたのである。盟邦ドイツが今日の苦境に陥つた主な原因は、ソ連の低温の克服によるシベリア開発を見落したこともその一つであらう。勿論直接には雪と氷の世界ではドイツが世界に誇る科学兵器も殆ど無力であつたことに帰する。
今年のやうな大雪の年に、もし北方で大規模な戦闘が行はれたとしたら、どういふ問題が起るかといふことも一応考へておく必要がある。【以下、次回】
中谷宇吉郎は、こういう遠回しな言い方によって、ソヴィエト連邦が、厳冬期に日本の北辺に侵入してくる可能性を示唆しているのである。