礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

民族と民族性は資本主義社会の形成によって成立する

2020-11-22 06:21:40 | コラムと名言

◎民族と民族性は資本主義社会の形成によって成立する

 古在由重『現代哲学』(三笠書房、一九四六年五月)から、「四 観念論のドイツ的形態」の章を紹介している。本日は、その二回目。
 文中、傍点が施されている部分は、太字で代用した。とあるのは、章末にあった原註である。

 一般的に、いはゆる日本的なものとの関係において見られた『ドイツ的なもの』と『アメリカ的なもの』との対立。特殊的には日本の支配的哲学との関係において見られたアメリカ哲学とドイツ哲学との対立。この問題を系統的に究明することは、おもふに興味ある一つの主題となりうるだらう。しかしいまはただそれについての若干の暗示をしるすにとどめておく。
 一体ドイツ哲学の特性とはどんなものだらうか? それに正確な規定をあたへ、それを根本的に究明することは多大の労力を要求するであらう。しかしそのまへにまづ問題となるのは、ここに特性といはれるものがどんな見地から論究さるべきかといふことである。ドイツ人の哲学だからといつて一切のドイツ哲学が一定の明確な特性を表現するなどとはいへない。ドイツの哲学もまた、他の諸国のそれと同様に、千差萬別である。このやうな意味で哲学におけるドイツ的なもの等々をもとめようとする一切の試みは、あたかも一般に超歴史的なるものを探求しようとする試みと同様に徒労なことであり、愚劣なことである。(2)
 一般に民族的性質が歴史的に発展するだけではなく、そもそも民族および民族性そのものが資本主義社会の形成によって成立するものである。資本主義社会をうみだす諸条件の成熟によつて物質的な(したがつてまた観念的文化的な)封建的分散および制限が揚棄されたければ、民族的統一性についてかたることも統一的民族性についてかたることも同様に無意味であらう。かくて一段に民族あるひは民族性はあきらかに資本主義社会とともにはじめて成立するところの一つの歴史的範疇にほかならない。かくでドイツ哲学の特性が問題とされる場合にも、まさにそれはこのやうな歴史的見地からのみ究明されなければならぬ。【以下、次回】


(2) すでにフィヒテの『ドイツ国民につぐ』(一八〇八年)やシェリングの『ドイツ科学の本質について』(一八一一年・断片)にはかかる試みが存する。ことにフィヒテは『ドイツ性』を問題としてとりあげた最初の一人だらう。現代においてはたとへばミュレル・フライエンフェルスの『ドイツ的人間およびその文化の心理学』(一九二一年・第二版・一九三〇年)は『民族心理学』の立場からのこの種の試みに属する。またナチス的なテオドール・ヘーリングの『ドイツ的哲学とはなにか?――精神的系譜研究への一寄与』(一九三六年)は『精神的人種論』の立場から哲学における超歴史的なドイツ性を規定しようと苦心してゐる。

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