◎風化した仏様が石の裏側に寝てござる
書棚を整理していたら、珍しいものが出てきた。半世紀ほど前、自分が、まだ高校生だったころの「修学旅行のしおり」である。『旅のしおり』というタイトルで、一九六七年(昭和四六)二月六日、東京都立□□高校修学旅行委員会発行(非売品)。B6判、タイプ印刷で、本文一七二ページ。
巻頭に、苅田あさのさんの「阿修羅」という詩が置かれている。この「苅田あさの」というのは、たぶん、婦人運動家の苅田アサノ(一九〇五~一九七三)のことだろう。もちろん、当時は、そんなことは知らない。
それに続いて、A・T教諭の「寝仏様」と題するエッセイが置かれている。これを読んでゆくうちに、半世紀前の記憶が徐々によみがえってきた。と言っても、半世紀前の修学旅行の記憶がよみがえったわけではない。半世紀前に、この「しおり」を手に取り、このエッセイを読んだ記憶が、とりあえず、よみがえってきたのである。エッセイの全文を引いてみよう。
寝 仏 様 A・T
八月末の暑い日に、白毫寺〈ビャクゴウジ〉の土塀を後にしてカンカン照りの道を旧柳生街道を探して歩く青年と白髪まじりの男の二人連れがある。それが誰であるかは諸君の想像にまかせる。大杉教会の前を通ってやっと街道らしい道にさしかかる。漸く両側は木立に囲まれて道幅もせまくなり、所々に石畳もあらわれてくる。クマゼミがシャーシャーと鳴き汗は眼の中まで入ってくる。この二人連は何を探して行くのか。青年が一目見たいと思う寝仏である。白髪男は唯それについて歩くだけである。道はますます細く、登りはきつくなる。仏はまだ見えない。二人は少しずつあせりだす。もう半〈なかば〉あきらめた頃寝仏〈ネボトケ〉と書いた棒杭が道端に見つかる。たしかに寝仏と書いてある。だが仏らしいものはどこにもない。青年は繁みをかきわけて崖を登る。やゝあって首を横に振りながらおりてくる。反対側の流れの方に下りて見る。何もない。えいままよと彼は靴をぬぎ流れに足をひたす。白髮男は側の石に腰をおりす。やり切れない失望感。二人はあきらめて帰り支度をする。白髪男が何の気なしに今一度、棒杭のわきにころがる石の裏を見る。あった、あった、小さな仏様が、それももう消えそうな位風化した仏様が石の裏側に寝てござる。青年を呼ぶ。彼は瑞喜の涙を流して見る。男もながめる程に満更でもなさそうだ。
帰路の下りは早い。青年は勿論深い満足感を発散しながら足取りは軽い。白髪男もこんな所までお供をさせられた不平はとうの昔に忘れている。今は道端の消えかけた仏様の姿が昔の庶民の信仰のにおいとまじって、男の心の中に新しいものをつくりはじめている。具体的に何とは云えない。たゞ権力を持った者が作った奈良の大仏や平等院の阿弥陀様に比べると何となく有難味のあるものである。
ここで、「青年と白髪まじりの男の二人連れ」というのは、この修学旅行の下見のために現地に赴いた二名の教諭のことである。「白髪まじりの男」というのは、このエッセイを書いたA・T教諭自身であり、「青年」というのは、同僚で、修学旅行担当だったF・K教諭である。
当時、この文章を一読し、その巧みな文章に感心させられた覚えがあるが、半世紀たった今、読みなおしても、やはり名文だと思う。A・T先生の白髪まじりの風貌は、今でもハッキリと目に浮かぶ。そして、今日の自分が、その当時のA・T先生に比べても、十歳以上は年長になっているだろうことに気づいて、愕然とする。
なお、そういう年齢になったので言わせてもらうが、このエッセイの最初のほう、「それが誰であるかは諸君の想像にまかせる。」の二〇字は、削ったほうがよかったと思う。また、末尾の部分は、「男の心の中に新しいものをつくりはじめている。」でとどめたほうが、余韻があったのではないか。
ところで、この「しおり」によれば、一九六七年四月一日の見学コースのひとつに、「柳生街道から市内へ」というものがある。このコースを選択した者は、徒歩で「寝仏」の脇を通過することになっている。かすかな記憶をたどると、自分も(あるいは自分のクラスも)、このコースを選んだように思うが、「寝仏」を見た記憶が全くない。【この話、続く】