◎廃棄されたあとに非難するのは欺瞞的
昨日の続きである。京都の古書店「書砦・梁山泊」が発行しているパンプレット『〔講演〕桑原蔵書問題★古本屋はこう考える』を紹介している。
桑原武夫蔵書問題について、「書砦・梁山泊」の店主である島元建作さんは、廃棄を決断した副館長に「同情する」と述べられている。島元さんが、そう述べられる理由については、パンフレットを買って読んでいただくべきであって、ここで安易な引用をおこなうことは避けなくてはならない。しかし、これを入手するのが難しいという方も多いと思うので、ポイントだけを示しておこう。
1 桑原武夫の蔵書は、その仕事ぶりから見て、「雑本」が多かったと推測される。
2 桑原蔵書のうち貴重なものは、京都大学人文研究所によって、最初から抜かれていた。
3 桑原蔵書は、桑原武夫が亡くなってから二十七年間も、段ボールに入れられたまま、京都市内の図書館の間で、たらいまわしされていた。
4 この間、桑原蔵書の活用を呼びかけるような動きは、一切、起きていない。
5 蔵書が古本屋の手に渡れば、再活用もありえたが、京都市には、蔵書を廃棄する権限はあっても、蔵書を古本屋に売る権限はなかった。
要するに、島元さんは、廃棄されたあとになって、副館長や京都市を非難するのは「欺瞞的」だと言われているわけである。
なお、島元さんは、次のような指摘もされている。ここは、引用させていただきたいと思う。
今回の問題で京大人文研の人が(新聞取材に)、「先生の学問が失われた」などと嘆いていますが、もし桑原蔵書に価値があるとすれば、桑原さんの書斎ではどんな本がどんな配列で並べられていたか、どんなところにどんな本が混じっていたか、といった書斎全体の在り方だったのではないでしようか。それは僕らも覗いてみたいですし、そこに学問的な意味もあるはずです。また、それなら詳細に写真を撮っておけばよかったでしよう。ですから、けっして例々の本それ自体に価値があるという問題ではないと思います
桑原蔵書が、まだ書斎にあった段階で、写真をとっておくべきだったという指摘である。このことは、たとえ、桑原蔵書が適切に管理されることになった場合でも、必要なことである。鋭い指摘だと思った。【この話、続く】