礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大槻文彦、「前哲林子平碑」を再建(1875)

2018-06-07 03:00:22 | コラムと名言

◎大槻文彦、「前哲林子平碑」を再建(1875)

 昨日の続きである。「林子平の墓碑」(一般に「林子平の墓」と称されているもの)を目印に、「林子平之碑」を見つけたわけだが、最初、目に入ったのは、「林子平之碑」ではなく、「前哲林子平碑」であった。「前哲林子平碑」は、「林子平の墓碑」の南側、山門から見て、「林子平の墓碑」の手前に位置している。しかも、巨大である。高さは三メートルはあろうか。「林子平の墓碑」と同じく、東を向いて建っている。
 現地に赴く前、「前哲林子平碑」のことを知らなかったので、一瞬、これが「林子平之碑」か、と勘ちがいしてしまった。ただし、格調の高さは、「林子平之碑」に遠く及ばなかった。
 帰ってから調べ直し、いろいろな事実がわかった。昨日も援用させていただいた宮城県公式ウェブサイト「指定文化財|史跡|林子平墓」には、次のようにあった。

『三国通覧図説〈サンゴクツウランズセツ〉』、『海国兵談』等を著わし、世に先んじて海防の必要を唱え、そのため幕府から罰せられた林子平〈ハヤシ・シヘイ〉の事蹟は天下に有名である。寛政5年(1793)6月56才で幽閉中病没し、北山の龍雲院に葬られたが、罪人のため墓は建てられなかった。その後天保12年(1841)に赦免され、翌天保13年に甥の珍平によって墓碑が建てられた。現在、墓碑は宝形造瓦葺〈ホウギョウヅクリ・カワラブキ〉の覆屋〈オオイヤ〉によって風雨から保護されており、覆屋の前面には伊藤博文、大槻文彦〈オオツキ・フミヒコ〉寄贈の顕彰碑が建ち、子平の偉業をたたえている。

「覆屋の前面には伊藤博文、大槻文彦寄贈の顕彰碑が建ち」とあるところは、正確には、「覆屋の北側には伊藤博文の、南側には大槻文彦寄贈の顕彰碑が建ち」とあるべきか。
 さらに、東北大学大学院文学研究科言語学研究室の後藤斉〈ヒトシ〉氏が作成された「大槻文彦年譜(洋学に注目して)」を閲覧すると、次の記述があった。

1875(明治8)2月2日、文部省報告課勤務となり、西村茂樹課長から日本辞書の編纂を命じられる。明六社定員。諸葛信澄〈モロクズ・ノブズミ〉『小学教師必携』に序(執筆は前年)。4月、仙台伊勢堂下(現青葉区子平町)龍雲院の林子平墓(1942年国指定史跡)に「前哲林子平碑」(磐渓撰文)を建碑。【以下略】

 これによって、大槻文彦寄贈の顕彰碑「前哲林子平碑」の撰文は、文彦の父、大槻磐渓〈オオツキ・バンケイ〉によるものであったことがわかる。
 なお、「前哲林子平碑」の背面に、大槻文彦の一文があったので、後学のために書き写してきた。次のようなものであった(改行は、原文のまま)。ただし、短い時間で書き写したので、写しまちがえている虞れなしとしない。

 此碑建立之挙実在慶応元年乙丑刻既成而逢国
 変百事瓦裂此石踣廃委地者殆十年今茲乙亥春
 余与黒川剛須田平左衛門等相謀捐資建之以成
 前人之志会伊勢人立入仁兵衛在石巻聞其挙出
 若干金助之因并記云
    明治八年四月   大槻文彦記

 これによれば、この碑は、その原碑にあたるものが、慶応元年(一八六五)に建てられたものの、「国変」の混乱の中で毀損され、十年後の明治八年(一八七五)に、大槻文彦らの有志によって、再建されたものらしい。

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