◎国語伝習所の「講義録」は1891年に終結
先日来、紹介している『国文沿革史』(一八九一?)であるが、これは、なかなかの掘り出し物だったと思っている。その後、あちこち、拾い読みした結果、この本は、国語伝習所が発行していた「講義録」を合綴したものであることが判明した。
では、国語伝習所とは何か。ウィキペディアに「国語伝習所」の項はあるが、これは、台湾の「国語伝習所」であって、ここでいう国語伝習所ではない。
「教えて!goo」にあった、yanhuaさんの回答から、波田野節子さんの「洪命憙が東京で通った2つの学校―東洋商業学校と大成中学校―」という論文の存在を知り、読んでみたところ、そこに次のような一節があった。
この「大成経営者」とは、大成中学校を創立して校主となった杉浦鋼太郎(1858~1942)をさすと思われる。大成中学校の後身である大成高等学校が刊行した『大成七十年史』によると、杉浦鋼太郎は名古屋出身の教育事業家である 。明治21(1888)年、官立学校受験生のための予備校「大成学館」を九段中坂に設立し、翌年そこに「国語伝習所」を併設した。大八洲学会という国粋的な団体に属していた杉浦は、その関係で落合直文を中心に著名な国語国文学者たちを「国語伝習所」の講師として迎え、機関雑誌として「国文」を発行した。また女子教育のために通信教育用「女子講義録」を刊行し、明治36(1903)年には友人とともに東京高等女学校を創立している。大成学館では理科教育を重視して物理・化学の講義に重きをおいたので、医学校へ進む者が多く集まったという 。
「大成学館」と「国語伝習所」の生徒数が増加したため、杉浦は学校を一時神田区仲猿楽町に移してから、明治28(1895)年に神田区の三崎町に校舎を新築して移転し、明治30(1897)年に「大成学館尋常中学」を設立した。「大成学館尋常中学」は設立2年後に中学校令改正で「私立大成中学校」と改称し、昭和11年文部省指示で「大成中学校」になり、戦後の学制改革で「大成高等学校」となって、現在は三鷹市に移転している。
これによって、国語伝習所は、一八八九年(明治二一)に、杉浦鋼太郎によって、九段中坂にあった予備校「大成学館」に併設という形で、設立されたことがわかる。
右の波田野節子さんの論文では触れられていないが、当初から、「校外生」を対象に通信教育をおこなっていたもようで、その教材が「講義録」であったと推察される。昨日のコラムで紹介した「試験手続」(卒業判定試験規定)は、あくまでも、「校外生」を対象としたものであるので、一言補足しておく。
なお、「講義録」は、一八九一年(明治二四)に発行されたものが最後で、以降は、機関誌『国文』が、「講義録」を兼ねることになったもようである。
参考までに、『国文沿革史』の最終ページにある『国文』の広告を引用しておく。改行は原文のまま。最終行の「こと」は原文では「合字」。
*国文* 定価八銭税一銭
校外生諸君には郵税共七銭
国文は本年一月より体裁に大改良を施し第二巻第一として以後毎月
一回発行す今や講義録も本号を以て終結す付ては自今更に諸講義及
ひ質問等を国文に掲け校外生諸君の機関とせんとす諸君奮て愛読せ
られんことを望む