◎宿直教員の背中に銃口をあて「ハバー、ハバー」
昨日の続きである。すなわち、都立二中(都立立川高校の前身)がアメリカ軍によって、「占領」された話の後半である。田代實『立川高校の天体望遠鏡物語』(二〇〇四)より。
それから、職員だけは勤労動員署(現在の職業安定所)の二階応接室を借用して、今後のことについての話合いが行なわれた。この時、九月三日の宿直当番の二人の先生により、昨夜の米兵の二中への進駐状況についてもお話があった。それによると、昨夜六時と、八時と、今日の午前三時との三回に、波状的に、武装兵凡そ、五百名が、それぞれ大型米軍トラックに乗って何の予告もなしに、突如として、この学校へなだれこんできたのである。異様な物音に、驚いているうちに、米軍将校らしい、大きな男が、両手にピストルを持って、宿直室にやってきた。そして、各室に入るために、大声で、「オープン・ザ・ドア」とかなんとか云ったという。そこで、二人の先生は鍵を持ち、懐中電灯を持って、鍵のかかっているドアを、開けようとされた。しかし、何時も鍵を使っていないので、どの鍵が、どこのドアのものか、わからないので、まごまごしていると、その米兵が、うしろで、ピストルの銃口を背中にあて、「ハバー、ハバー」〔早く、早く〕と、どなった。そのうちに、門衛所に住んでおられた用務員御夫婦も、応援にかけつけられ、又、ある生徒のお父さんで、米国へ永く住んでおられたという人も、通訳係として応援に来て下されて、どうやら、大勢の米兵を、校舎の各部屋に、収容するとができたということであった。
用務員の御夫婦は、あれ以来学校外へは、出ることができず、米兵の為に何くれとなくお世話をされている。又、二中の寄宿舎(現在食堂のある木造二階家)には、数名の二中生が生活していたのであったが、これらの生徒達も舎監の先生の保護のもとに、安全であるとのことであった。兎に角、米軍と直接の折衝に当られた方々の御苦労は、大変なものであったろうと感謝せずにはおられない。そして、学校の安全を祈って、話合いは終わり、帰宅することになった。
さて、九月七日の朝となった。職員も生徒も、その後の学校のことを考えながら、予定の通り、諏訪神社の境内に集合した。そこで、米兵は昨夜六時頃所沢町の方へ、立去っていったとのことを知らされた。この日は、職員だけ学校へ行くことにして、生徒達は、学校へ立入ってはならない、明八日から、平常通り授業を始めるということで、直ちに解散となった。
それから私は、四日ぶりに学校へ、入ることになった。物理室は、一階にあつた(現在は三階にある)。恐る恐る物理教員室に入ると、何の異常も認められず、ああ、よかったと思ったのである。次に、準備室、これも異常なし、次に、実験室へと、入ってみて驚いた。その部屋は、足の踏み場もないほど、雑多なものが散乱していた。その雑多の塵の中から、今でもはっきりと覚えているのは、ピストルや、小銃などの弾丸が、小箱に詰められたまま、捨てられているのを発見したことである。こんな危険なものを無雑作に捨てる米兵のルーズさに、驚くほかはなかつた。こんなことは、日本軍人にとっては、到底考えられない重大な破戒行為であるからである。
このような状況で、二中の各教室は雑多なものが散乱していたのである。図画教員室や校長室なども、物理実験室に劣らず荒されていた。校舎内に捨てられていた弾丸類は、全部米軍のM・Pに届けられることになった。その日、二中生を校舎内に立入らせなかったことは、適切な処置であったと思ったのである。
そして、このストーム〔嵐〕の手が、二中の屋上に、設置されている丸屋根の中にまで、及ぶとは、夢にも思っていなかったのである。しかし、現実には、天体望遠鏡に付属している誘導望遠鏡(ファインダーともいう)、口径凡そ四センチメートル、長さ凡そ三十センチメートルの携帯に便利な、小さなこのファインダーが持ちさられていたのであった。
ドームの入口のドアは破られ、ファインダーの姿は、もう永久に見ることができないと、悲嘆にくれたのであった。 …続く。
(昭和四七年十一月記)