◎中村春二、「かながき ひろめ かい」を設立(1920年4月)
九月二七日のコラムで、中村春二編の『なかがきの すすめ』(成蹊学園出版部、一九二二)について触れた。中村春二と「かながき ひろめかい」との関わりについては、まだ詳しく調べていないが、とりあえずインターネットから、次のような情報を得た。
大正期の教育界では、常用漢字の字数制限が論議の的となっていました。中国から伝来した漢字を減らし、かわりに日本古来のひらがなやカタカナを使用すべきだとする「漢字制限論」は、すでに明治時代から一部の知識人によって提唱されていたものです。中村春二もこのような考えに共感し、とくに教育者としての立場から、読み書きをはじめたばかりの子どもたちに課せられる漢字学習の負担を懸念していました。
こうして大正九年〔一九二〇〕四月、漢字を排し、誰にでもわかりやすい表音規則とひらがな表記の普及を目指す「かながき ひろめ かい」が設立されることになります。偶然にも同じ年に、カタカナだけの表記を唱える実業家山下芳太郎の「仮名文字協会」も結成されています。
「かながき ひろめ かい」の発足に際し、春二は次のように明快に宣言しています。
「わたくしたち は はなすことば を まちがえずに かきうる ために、いままでの くだらない きそくを すてよぅ と をもいます。(中略)そして かな は にほんじんの りっぱな はつめい ですから、すべて を かな で かきあらわそぅ と をもいます。」(『かなのめばえ』だい一のまき)
世界中の民族が固有の文字や言葉を使えば、互いの交流には共通の言語が必要となります。ここで春二が注目したのは、国際共通語としてのエスペラント語でした。彼は「せかいきょーつー の ことばわ とりあえず このごろ さかえだした エスペラントにまかして」英語など特定外国語に依存すべきではない、と説いています(『かながきのすすめ』)。
数年後に春二が病没したため、この「かながき ひろめ かい」は次第に消滅していくことになりますが、一方の「仮名文字協会」は「カナモジカイ」と名を変えて活動を続け、現在は文化審議会の施策にも影饗を与える大きな存在となっています。こうした事実に、日本の国語改革に果たした中村春二の先駆的な役割を想い、夭折した彼の才能を惜しまずにはいられないのです。(成蹊学園史料館 穴山朝子)
以上は、インターネット上にあった「成蹊学園広報」(二〇〇九年七月一〇日)の記事である。
また、社団法人成蹊会のホームページの「成蹊探訪 26」には、次のような記事があった。
学園〔成蹊学園〕創立者中村春二先生の胸像は、本館西側のヒマラヤ杉の下にあります。台座にはかながき主義者(注)であった先生の業績を偲んで「なかむらはるじ」と直筆の文字が刻み込まれてあります。胸像の制作は、当時の帝国美術院会員・東京美術学校の北村西望教授に依頼し、昭和11年〔一九三六〕6月に除幕式を行いました。胸像は卒業生の寄付金により建立され、またこれを期して同窓生団体の「成蹊会」が結成されました。除幕式当日には、平生釟三郎〈ヒラオ・ハチサブロウ〉文部大臣(甲南学園創立者)より次のような祝辞をいただきました。「中村春二先生は、日本の近代教育史において特記さるべき先見の明をもち、実践力のあった大教育者と呼ぶにふさわしい人物でありました。(中略)君たち成蹊学園に学ぶものは、創立者中村春二先生の期待にこたえ、その教えを身に体して国家有為の人材たらねばならない。(後略)」
興味を持たれた方は学園史料館を訪ねて、学園のルーツを辿ってみませんか。【文:広報課】
(注)中村春二先生は大和詞〈ヤマトコトバ〉をすべて仮名文字で表すことを主張され、「かながきのすすめ」を提唱されました。
さらに、やはりインターネット上にあった『ZELKOVA』No.56(二〇〇九年一月)の記事から、駒込の染井霊園にある中村春二の墓には、「なかむらはるじのはか」という墓銘が刻まれていることも知った。
中村春二は、一九二四年(大正一三)、四八歳の若さで亡くなっている。もしも、もっと長生きをしていたら、その「かながき」運動はさらに発展していったことであろう。【この話、続く】
今日の名言 2012・10・2
◎先輩記者は南部の海印寺を紹介した
東京新聞編集委員・五味洋治さんの言葉。本日の東京新聞「こちら編集委員室」欄より。1999年2月、五味さんの先輩記者宛てに一本の電話がはいった。小渕恵三首相からだった(いわゆる「ブッチフォン」)。訪韓の際に立ち寄るべき地方都市について、アドバイスを求めていた。先輩は、慶尚南道の山中にある古刹・海印寺〈ヘインサ〉を奨めた。3月の訪韓の際、小渕首相は、海印寺に足を運び、韓国側を感激させたという。





