礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

春日政治著作集第三冊『国語叢考』とその解説

2012-10-13 05:51:30 | 日記

◎春日政治著作集第三冊『国語叢考』とその解説

 先月、国語学者・春日政治〈カスガ・マサジ〉の『国語叢考』(一九四七)という本を、何回か採りあげた。その途中で、同書が春日政治著作集第三冊『国語叢考』』(勉誠社、一九八三)という形で復刊されていることに気づいたが、なかなか参照する機会がなかった。
 昨日、国会図書館で閲覧してみると、その巻末に次のような「解説」がついていた。

 春日政治著作集第三冊は、著書「国語叢考」(昭和二十二年・新日本図書株式会社刊)を題名として、その他の関連論文「鎌倉時代の武士詞」(大正十四年・「鎌倉時代の研究」〈星野書店〉所収)「桃山時代の口語について」(昭和二年・福岡国語漢文学会における講演速記録)、および「国語史上の一画期―文禄伊曽保を中心とした語法―」(昭和三年・新潮社「日本文学講座」第十四、十八巻所収)の三篇を収めた。
「国語叢考」は、その「はしがき」にもいうごとく、「国語研究に関するもの若干を選輯し」、「主として国語の史的考察に資すべきもの」として編集した単行書である。敗戦後、漸く文運興らんとした極めて初期の刊行であるため、装釘はまことに質素で、紙質も粗末、当時の物質的窮状を伺わせるに足るものである。収容論文は、全部で十三篇、最初の「上代文体の研究」(昭和九年・「上代文学講座」三巻所収)およぴ「仮名小考」(昭和十六年・「文学」第九巻四号所収)の二篇をもって、緒論となし、最後の「手だてと目あて」(大正十一年・「かながきのすすめ」より)・「かながきの読みにくいといふ人に」(大正十五年・「母と子」より)および「国語問題展望」(昭和十三年・「国語国文」第八巻十号)の三篇をもって結論となす。即ち緒論は、文字表記の溯源的論考に始まり、結論は、その近代における実用問題に及んだものである。【以下略】

「解説」に署名はないが、著作集の編者である春日和男氏が書かれたものであろう。この解説を読んでほぼ確信したことだが、春日和男氏は、「手だてと目あて」の初出である中村春二編『かながきの すすめ』(成蹊学園出版部、一九二二)に当たっていない。もし、当たっていたとしたら、当然、「手だてと目あて」が、初出においては全文「ひらがな」で書かれていることに触れたはずであるし、中村春二の「かながきひろめかい」と春日政治との関わりにも言及したはずだからである。
 また、「かながきの読みにくいといふ人に」の初出にも当たっていないようである。この論文は、『国語叢考』では、「手だてと目あて」のすぐあとに置かれており、末尾に(大正十五年五月、母と子)とある。この「母と子」がわからない。単行本の書名なのか、雑誌名なのかもわからない。
 大正時代後期に成蹊学園が出していた雑誌に『くちなし』というものがあった。この誌名は、『母と子』を改題したものらしい。したがって、「大正十五年五月、母と子」とあるのは、『くちなし』大正一五年(一九二六)五月号のことではないのか。あるいは、この雑誌とは別に、成蹊学園から『母と子』という本が出ていたのでなないか、などと推測してみるが、もちろん、あくまでも推測である。
 いずれにせよ、春日和男氏の解説は、こうしたことに全く触れていない。このあたりは、春日政治という国語学の泰斗の全体像に関わる問題である。ご子息である春日和男氏には、徹底した考証をお願いしたかったところである。
 明日は、春日政治の論文「かながきの読みにくいといふ人に」を紹介する。ちなみに、この論文の正式なタイトルは、「かながき の 読みにくい と いふ人に」である。 

今日の名言 2012・10・13

◎社員の車だけ呼び出す会社がどこにあるか

 自由民主党の石破茂〈イシバ・シゲル〉幹事長の言葉。石破幹事長は、就任当日の9月28日、自民党所属の国会議員が、同党本部を出る際におこなっていた「〇〇先生のお車お願いします」というアナウンスをやめさせることにしたという。本日の日本経済新聞「聞き耳そば耳」欄より。

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