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ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

町内会夏祭りに見る、裏方の人々の尽力

2024-08-25 15:58:34 | ひと

夏の終わりの日曜日、今年も、町内では、自治会夏祭りが行われた。

町内の一員として、今年も少しだけ開催に協力。

それですごいなあと思うことは、町内会祭りの開催実行委員の方々の奮闘ぶりだ。

実行委員は、町内会の役員と子ども会の役員とで構成されている。

特に、町内会の方は、子どもたちや町内の方々が喜ぶようにと、裏に回って計画に実行にと尽力している。

昨夜の前夜祭では、子どもたちが楽しめるようにとよくある祭りのゲームや、焼きそば・フランクフルトなどの食品販売も行う。

その射的をはじめとするいくつものゲームができるようにとそのセットを作ったり、わたあめやポップコーン作りの機械を準備したりした。

その前夜祭は夕方からわずか3時間しかないのだが、そのための準備に労力をかけてがんばる方々がいることには敬意を表したい。

ゲーム用の仕掛けやセットも、食品も、手作りだ。

ゲームは無料だし、販売物品はどれもこれも100円。

今年は、野菜販売もあって、キュウリが4,5本で100円、玉ねぎが3,4個で100円などと、今の市価では考えられない安さであった。

ただ、PR不足だったせいもあってか、残念ながら野菜の売れ行きは芳しくなかった。

まあ、集まっている方々が、子どもや保護者であんまり野菜には関心がない方が多かったようだから仕方ないか。

それでも、子どもも楽しんでいたし、大人もその様子を見て楽しんでいるのが分かった。

こんなふうに、子どもや大人が楽しむのをみたい、楽しませたいという気持ちで祭りを支える人たちってすごいなと思った。

 

今日は、祭りの本番。

山車と当地独特の金魚台輪の町内巡行だった。

心配された雨に当たることもなく、具合の悪くなる人もなく、無事に巡行ができた。

終わった後には、後片付けがあったのだが、テントはじめ昨夜使ったものも含め、いろいろと片付けるだけでも2時間では終わらなかった。

片付けが2時間で終わらないということは、準備でいったい何日かけたのかとここでまたその労力の多さを感じた。

長机やいす、テントなどは、よそから借用してきたものだから、明日以降の返却になる。

重いものを移動させるのは大変だ。

たくさんのゴミも出た。

それでも、町内で夏祭りを開催する。

なんでもない地域の人々のすごさ、すばらしさを感じた、町内会祭りの2日間であった。

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フォークシンガー&ランナー、高石ともやさん逝く

2024-08-20 22:02:35 | ひと

今朝の新聞で、フォークシンガーの高石ともやさんが亡くなったことを知った。

17日、病気のため82歳で死去したとのことだった。

1941年生まれの彼が、私の同じ大学の出身者だったことを知ったのは、かなり後のことだった。

「おいで皆さん聞いとくれ ぼくは悲しい受験生」で始まる受験生ブルースが累計90万枚を超える大ヒットとなったのは、1968年。

私はまだ小学生だったし、高石ともやさんはテレビ出演して歌うことはなかったから、その頃あまりこの歌には親しみは持てなかった。

その後、71年、フォークバンド「ザ・ナターシャー・セブン」を結成してからが、むしろなじみの深い曲が多かった。

「いつの日にか 君にあえると きっときっと信じてた けど もう やめた やめた」と歌う、「想い出の赤いヤッケ」は、何度か聴いて、初めていい歌だなあと感じた曲だった。

 

「私に人生と言えるものがあるなら」は、アメリカ民謡だったそうだが、この歌も好きだった。

本当に好きだった人とやり直せるものならばやり直したいのに、やり直せない人生。

その切なさが、若いときには分からなかったが、今は以前に比べよくわかるようになってきた。

高齢化してきてから、なぜかたまにこの歌を口ずさむこともある。

 

一番好きだったのは、「街」 という曲だった。

これについては、以前ここに書いたことがある。

 

「街」(高石ともや)~昔の歌だが心地よい曲~ - ON  MY  WAY

たしか大学のはるか先輩にあたるのだったよな…。ただのマラソンだけじゃなく、ウルトラマラソンやトライアスロンもしていた人だったよな…。そんなことを考えながら、手元に...

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歌も好きだったが、それ以外にも好きだったのは、彼がランナーだったことだ。

マラソンやトライアスロンに積極的に挑戦していた。

公式サイトによるとマラソンの最高タイムは79年の京都マラソンの2時間47分7秒。93年には米の約4700キロを走る「トランス・アメリカフットレース」を完走したのには、びっくりした。

ホノルルマラソンには1977年の第5回大会で初参加し、2019年まで43回連続で出場し、一昨年2022年にコロナ禍明けで3年ぶりに出場したのが最後だったそうだ。

自分には到底真似できない、「シンガーソング・ランナー」と称されるほどのランナーであった。

 

 今回、彼が亡くなったことで、有森裕子さんが秘話を公表している。

1996年にアトランタ五輪で銅メダルを獲得したときの名言、「初めて自分で自分を褒めたい、と思います」は、高石さんがランナーのために作詞・作曲した「自分をほめてやろう」という曲から来ていたのだそうだ。

有森さんとその曲の出合いは、彼女が高校2年の時。

彼女は全国都道府県対抗女子駅伝の岡山県代表に選ばれながらも、補欠に決まった。

気落ちして参加した開会式で、高石さんの「自分をほめてやろう」という詩を聞いて、号泣してしまったのだそうだ。

そして、その言葉がずっと心の中に残っていたからこそ、五輪のレース後、自然と口に出たのだということだ。

 

その「自分をほめてやろう」は聴いたことがなかったので、検索してみた。

高石ともやさん本人が歌ったものではないが、YOUTUBEでどんな歌なのかを聴くことができた。

 

自分をほめてやろう    高石ともや 詞・曲

 

この大会に選ばれたことを もう一人のあなたに

よくここまで来たねと ほめてやってください

自分で自分をほめるのが とても自然なこと

頑張ったのは君だから 自分で決めた道だから

練習のつらさ 負けた悔しさも それでも走り続けた訳も

君だけが覚えてる 今夜は自分をほめてやろう

見えるだろう ひとすじ道 君が選んだ長い道

見えるだろう ひとすじ道 みんなが君を待っている

 

明日のレース 目標通り うまく走れたら

おめでとうって自分に声かけて 心から笑えばいい

明日のレース 失敗しても もう一人のあなたに

悔しいねって声かけて 涙流せばいい

ケガした足に誓ったはずさ 最後まであきらめないと

君だけが覚えてる 今夜は自分をほめてやろう

見えるだろう ひとすじ道 君が選んだ長い道

見えるだろう ひとすじ道 みんなが君を待っている

 

高石ともやさんの歌には素朴さ、誠実さ、爽やかさを感じる歌が多かった。

聴いていて元気をもらうことが多かった。

そして、年齢を重ねても走る、憧れのランナーだった。

ご冥福をお祈りいたします。 合掌 

 

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大谷のMLBオールスターでホームランに、あっぱれ!!!

2024-07-17 22:18:27 | ひと

 

すごいね、大谷。

MLBオールスターで、期待どおりにホームランをかっ飛ばすなんて。

いくら、昨季のホームラン王で、今季もナショナルリーグのホームランランキングでトップに立っているとはいえ、実際にホームランを打つのは簡単なことではないだろう。

MLBでは、オールスター戦は1試合しかない。

しかも、立てる打席はせいぜい2回、どう多くても3回しかない。

なのに、少ない回数でそこでホームランを打てるか?

難易度が高いと思っていた。

だいたい、3回打席に立って、ヒットを1本売っただけで、打率が3割3分3厘。

この割合でいって、首位打者が取れそうな打率となる。

おまけに、単なるヒットではなく、ホームランを打つ確率って、どれだけ低いのだろう?

さらにいえば、オールスターだぞ。

相手投手だって、実力のある選手ぞろいのはずだから、ホームランどころかヒットも難しいはず。

そんなことを考えていたから、大谷はホームランでなくてもヒットが打てればいいさ、と思ってテレビ画面を見ていた。

 

1打席目は四球。

じっくり見て打ち急がないだけでも、オールスター戦というお祭りの舞台でもしっかり真剣に勝負しているのが分かって、さすがだと思った。

そして、2打席目。

前の打者2人がヒットを打って、無死1,2塁のチャンスで大谷の出番となった。

ここでヒットを打てば先制だ。

ぜひタイムリーを打ってくれ。

そう願っていたら、2ボールからの3球目だった。

大谷がスイングすると、打った瞬間、ライトへのホームランだと分かる一撃となった。

 

いやあ、すごい。

まさに、スーパースターだね。

この難易度の高い場所で、よく打てるもんだ。

タイムリーヒットを打てるだけでもすごいと思っていたのに、みんなが望んでいたホームランを打つなんて。

われわれだと、「うわあ、無死1,2塁だ。ヒット打てなかったらどうしよう。」と、マイナスのことも考えるものなのだけれど、大谷はそんなこと考えないのだろうね。

きっと、自分の力を信じられるのだろうな。

改めて彼のすごさを感じた。

心技体そろわないとここまでの活躍はできないよなあ。

 

あっぱれ!!!

 

これからも、その活躍に心躍らせてもらおう。

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ほぼ同年代、Tさんの訃報を知って

2024-03-06 19:23:00 | ひと
有名人でなくても、届いた訃報に驚くことがある。
ましてその人が、自分とほとんど同じ年代の人だとなおさらである。
今日は、Tさんが亡くなっていたことを知り、ちょっとショックだった。

Tさんとは、私が長岡で単身赴任していた当時に知り合った、同業の方だった。
仲良くなったのは、同じ職務の研修で全国大会に出かけたときだった。
当時香川県高松市で開催された2日間の全国大会には、市内から6人が参加した。
私もTさんもそのメンバーだった。
同じ市内からまとまって行くということで、宿泊先も同じ宿だった。
当然のように、夕食時には懇親会が行われた。
酒が入ると、互いの心的距離が縮まる。
Tさんは、現職に就く前には、東京で、芸能プロダクションで音楽にかかわっていたという話をしていた。
その頃多くの人に知られたアイドルグループが解散することになったのだが、バンドメンバーが足りなくなった。
「あの解散コンサートで、ドラムをたたいていたのは、オレだったんだよ。」
…衝撃の告白だった!!!?
「へえ~、すごいじゃん。」
「なんでまた、新潟に戻って、まったく関係ないこの仕事してるんだよ!?」
一同から驚きの声が次々と上がったのだった。

懇親会後は、当然のごとく、2次会へ出ようということになり、高松の街にくり出した。
当時40代の私たちは、飲みながらカラオケをたっぷり楽しんだ。
さすが元音楽関係者だけあって、Tさんの歌はうまかった。
特に、松山千春やTUBEの歌が得意であった。
「長い夜」や「あー夏休み」などは、確かにうまかった。
浜田省吾や村下孝蔵で対抗(?)した私に、
「50foxさん(私)も、TUBE歌わない?アンタの声に、絶対合うよ」
などと薦めてくれたりもした。
高松で楽しい時間を過ごした私たちに、Tさんは、「長岡に帰ってからも、このメンバーで会をやろう」と、提案した。
全員異論なし!となると、Tさんは、この6人会の名前は、高松で仲良くなったのだからそれにちなんだ名前にしよう」と、話を進めた。
高松市には栗林(りつりん)公園という著名な公園があって、日中、研修会後に皆でそこを訪れていた。
「それにちなんで、この会の名称は、『ゼツリン会』とする!」と叫ぶTさんの声に、一同ズッコケたのであった。

その「ゼツリン会」は、長岡に帰ってからは、「長岡の奥座敷」である蓬平(よもぎひら)温泉の旅館で行ったりした。
そして、その1年後の夏には、私も含めて何人かは中越地区の長岡ではなく、上越や下越の方へ異動になってしまったのだが、Tさんから電話が来た。
「今夜、長岡でまたゼツリン会やるんだけど、50foxさんも来ないか!?」
「おいおい、急だなあ。」
「来るだろ。会場は、6時半から駅の近くの○○だから、待ってるよ。」
ガチャン。
まったく、なんて誘いだ。
ブツブツ言いつつ口元に笑みを浮かべながら、私は在来線から新幹線に乗り継ぎ、長岡まで急ぎ駆けつけ、旧交を温めたのであった。
その後は、残念ながらメンバーの都合が合わず、ゼツリン会は開かれなくなってしまったが。

とにかく周囲の人を楽しくさせることが好きで、それができるTさんの明るさには、人を引き付け元気にする力があった。

…高松から15年余りがたって、定年退職後の年賀状には、「これからは好きなことをします。年賀状も終わりにします。」と連絡が来た。
好きなことって、なんだろう?きっと音楽関係だろうな…?なんて思ったのだった。
まだあれから、何年もたってないように思えるけれど、…残念だ。
私より1歳年上なくらいだったはず。
Tさん、楽しい時間をありがとうございました。
ご冥福をお祈りします。  合掌。
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準決勝で敗れたBさんへ ~高校野球~

2023-07-23 22:42:26 | ひと

Bさん、お疲れさまでした。

よくがんばったね。

高校野球県大会準決勝。

あなたのチームは、甲子園まであと2勝に迫っていた

だけど、残念ながら、今日の試合であなたのチームは敗れてしまった。

そして、Bさん、あなたの出場もかなわなかった。

控えメンバーとして、出場メンバーを支えることしかできなかったのは、歯がゆかったかもしれないね。

それでも、そこに、あなたのすばらしい成長を見ることができたとも思っているんだよ。

だって、あなたの所属した野球部には、何十人もの部員がいた。

それなのに、あなたはちゃんとベンチ入りを果たした。

出番は回ってこなかったけれど、大事な戦力として認められていたということだ。

 

3年生として最後の大会だから、きっとチームメートと力を合わせて、自分ができることをしっかりとやってきたのでしょう。

だって、あなたの高校は、各種のスポーツで強豪校。

野球だって、かなりの強さをもっている学校でした。

そのチームで、背番号をもらってベンチ入りまでできたのだから、よくがんばってきたよ。

ただ野球がいくらかうまいだけで、自分のことしか考えられないようなら、多人数の中でベンチ入りまではできないはずだ。

だから、人間的にも大きな成長を見せているのだろうなあ、と思っていたよ。

 

Bさん、あなたとかかわりがあったのは、11年前からの3年間。

あなたが小学校1年生から3年生までのきわめて子ども子どもした時代でした。

あなたは、気持ちをうまくコントロールできず、自分の感情をほかの人にすぐぶつけてしまうことがよくありましたね。

そして、そんなことをする自分や注意する周囲の大人が嫌いでしたよね。

だから、人とのかかわりではよくトラブルを起こしていたあなたでした。

 

そんなあなたが好きだったのが、野球というスポーツでした。

小学校に入学してから地域の野球チームに入り、野球はいつも真剣にがんばっていました。

野球は、チームスポーツですから、自分のことだけでなくほかの人のことまで考えられなくては、そのチームは強くなれません。

あなたは、きっと野球に一生懸命に取り組むことで、野球の技術だけでなく人とのかかわり方や人間性も高めていったのでしょうね。

 

8年前、別れのときが来たとき、あなたから花束を受け取ることを切望した私でした。

あのとき、「ガンバレ」という私の言葉に目をうるませながらうなずいてくれたあなたでした。

そして、この夏、高校野球のチーム紹介の雑誌にあなたの名前を見つけました。

それだけで、この8年間、あなたが自分にできる努力を続けてきたことがわかりました。

 

今日の試合で、高校野球生活は終わりだと思います。

でも、野球で努力してきたことが、きっとあなたのこれからの人生の力になるはずだと信じています。

これからきっと、さらなる活躍をしてくれることと信じています。

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卓球の石川佳純選手、現役引退

2023-05-01 21:23:58 | ひと

今日は、2つの引退報道があった。

1つは、アイスダンスの村元哉中・高橋大輔。

この種目で五輪には出られなかったが、今春の世界選手権での日本最高順位達成など、年齢が上がってから、よくチャレンジしたと思う。

本当に、よくがんばったと思う。

 

そして、もう1つは、卓球の石川佳純選手。

14歳で代表入りしてから、よくここまで日本の第一線で活躍して来たものだと思う。

特に、世界選手権やオリンピックの団体戦では、日本チームに欠かせない存在だった。

 

特に、ロンドン五輪で、平野早矢香や福原愛と初の銀メダルを獲得したのは思い出に残る。

その後も、2016年のリオデジャネイロでも、福原愛、伊藤美誠と銅メダル。

2021年の東京五輪では、チームの中心として、伊藤美誠、平野美宇を引っ張り、再びの五輪銀メダルに輝いた。

 

世界選手権では、2017年のデュッセルドルフ大会で、吉村真晴と組んで日本勢48年ぶりの金メダルを獲得したことは、すばらしい快挙だった。

 

全日本卓球選手権では、なんと5回も優勝を遂げている。

2010年度の大会で、17歳で初優勝してから、2013~15年度の3連覇もあった。

さらに、若手の台頭でもう石川佳純は勝てないと思われていたのに、2021年の大会で決勝では伊藤美誠を破って、女王の座に返り咲いた。

その根性たるやすごいと、当時はもらい泣きした。

 

根性がすごいといえば、東京五輪の個人戦の出場権を巡る戦いもし烈な中、平野美宇に負けずに、その参加資格を勝ち取ったのは、執念を感じた。

当時は感染症禍で大会出場も大変だったのに、世界を回り、ポイントをかせいでいった姿は忘れられない。

今年も国際大会に出て戦っていたから、まだまだがんばるものだと思っていた。

 

それにしても、ここまで第一線を維持するのは大変だったと思う。

進化する世界の卓球についていくために、自身のプレースタイルを前陣で戦えるように意識して変えた時期もあった。

それができたのは、猛練習の賜物だったはずだ。

もっとも、福原愛の次に天才卓球少女と呼ばれた彼女だった。

でも、天才と言われるのは、それだけの猛練習をして力を培っていたからだ。

それがなければ、普通の卓球選手だったはず。

 

いずれにしても、今まで本当によくがんばって、日本卓球界を支えてくれた。

その功績と努力を称えたい。

笑顔も魅力の石川佳純選手、長い間お疲れさまでした。

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「もういいかい 小椋佳ファイナル『歌創り50年 青春に帰る』」(NHKBSP)を見て知る彼の引退

2023-01-08 21:14:24 | ひと
今日、昼に何気なくテレビをつけていたら、午後1時からNHKのBSPで、「もういいかい 小椋佳ファイナル『歌創り50年 青春に帰る』」という番組が始まった。
これによると、小椋佳は、2年前にラストアルバムを制作し、コンサート活動もやめるとのことだった。
ただ、この感染症禍に陥ってしまったために、ラストコンサートが延び延びになってしまっているのだという。
だから、その代わりに、この番組で自分の人生に深くかかわった厳選した8曲を歌っておくことにしたのだということだった。

番組は、小椋佳が初めてのコンサートを開いたときの映像から始まって、彼の人生をたどりながら、8~9曲を歌う姿を見せていた。

彼が選んだ曲は、
○白い一日
○俺たちの旅
○木戸をあけて
○流されはしなかった
○時の始め、空の果て
○美しい暮らし
○愛燦燦
○ラピスラズリの涙
○もういいかい

彼が、レコードデビューすることになった話から、
生い立ちの話、
銀行員として働いていたときの逸話、
曲作りに関するエピソード、
2年前に制作されたラストアルバム録音の現場での様子
…などが織り込まれながら、番組の1時間半があっという間に過ぎた。

小椋佳の名前を初めて知ったのは、私が、高校時代だった。
小椋佳作詞、井上陽水作曲の「白い一日」のヒットによってだった。
高校生向けの雑誌に、見開きでその歌が紹介されていたのを覚えている。
その後、布施明に提供した「シクラメンのかほり」が大ヒットした後、空前の「小椋佳ブーム」が起こったのだった。
私が学生時代のころには、「めまい」や「揺れるまなざし」など自身のヒットや、中村雅俊に提供した「盆帰り」「俺たちの旅」など、彼の歌には引き付けられたものだった。
その魅力は、曲よりもやはり詞だった。
番組内でも扱っていたが、中村雅俊の「ただおまえがいい」では、曲名に「ただ」がついているとか「放物線の軌跡の上に」とか、歌詞ではなかなか使わない言葉を使っていた。
そんな詞に抒情的なものを感じ、引き付けられた歌が多くあったことは確かだ。
まあ、時々、妙に理屈っぽく感じられてしまったこともあるけれども…。

私の学生時代が終わってからも、「愛燦燦」や「愛しき日々」など他者に提供した楽曲がヒットした。
五木ひろしが熱唱する「山河」も、小椋佳の曲だった。
コンサートツアーもずっと続けてきていた彼だった。

その小椋佳も喜寿を迎え、自身の声が出なくなったことや、作品作りが難しくなったこと、肉体的な衰えなどから、来る1月18日の最終公演をもって大規模なツアーは終わりとするのだそうだ。
残念なのだが、これも人の人生なのだと思った。

番組の終わりの方で歌った、「もういいかい」という曲。
自分の人生や日本のことを歌っていた。

この国に生まれて この国に育って
随分長々生きたものだと 喜寿を超える歳に至り想う


という事実を歌いながら、

この国はそもそも いい加減が大事
神と仏とキリストないまぜ 平等理念に背く憲法
ふと思えば 信頼する政治家には 会わずじまい

という部分には、笑ってしまった。

でも、歌声を聴くとうまく声が出きらず、やはり今が引き際なのかなあ…と思った。
だけど、味わいのある声だな、惜しいなと思いもした。

それはともかく、もう少し最後のアルバムの曲を聴いてみたくなった。
アマゾンで小椋佳のアルバム「もういいかい」の注文をポチッと押してしまった。



この番組を見た後、今日、小椋佳の記事がネットに出ていた。
小椋佳が最愛の妻と別居し“週末婚”を選んだ理由 タバコは1日2箱、毎日コーラを飲む「不健康人生観」 | デイリー新潮

小椋佳が最愛の妻と別居し“週末婚”を選んだ理由 タバコは1日2箱、毎日コーラを飲む「不健康人生観」 | デイリー新潮

ポリコレが溢れ、“正しいこと”が跋扈(ばっこ)する令和の世。ゆえに健康こそ正義となるわけだが……。…

デイリー新潮

 

番組で聴いた内容も多かった。
まあ、ちょっと目を引こうとしている内容も前面に出ていたけれども。

吉田拓郎、小椋佳、財津和夫もそうだったかな…。
青春時代から今まで自分を支えてくれたシンガーたちが、次々と引退していくのは、やはりさびしさを感じざるを得ないなあ…。
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さすが、岸本大紀選手!!!

2023-01-03 20:25:01 | ひと
うわあ!すごい!!
やっぱり岸本選手だなあ!
その底力に感心。
昨日は城西大の山本唯翔選手、今日は青学大の岸本大紀選手。
箱根駅伝2日目、復路でも、新潟県出身選手の活躍に心躍った。

復路スタート時点で2分30秒差だった青学大と駒大との差が、9区の岸本選手にタスキが渡った時点では、1位駒大とは最大の7分32秒差がついていた。
しかも、順位は、8位にまで落ちていた。
7位とは42秒、3位とは57秒の差があった。
それを急追し、上位争いをしていた3位から7位までの5校をまとめて一気に抜き去って行ったのは、痛快以外の何物でもなかった。
去年同級生が作った区間記録も望めるかとも思ったが、数秒及ばなかった。
とはいえ、しっかり区間賞を獲得して、優勝候補と言われながら苦境に陥っていたチームを表彰台最低限の3位を確保する活躍を見せた。
できれば、その快走は、首位争いをするためのものであってほしかったけれども…。

やっぱり大したもんだわ、岸本大紀選手。
今回は、もう4年生だったから、次の舞台は社会人となる。
その先は、GMOインターネットと決まっている。
そのチームには、大迫傑選手も所属するから、きっといい刺激を受けるのではないかと思う。
新潟県出身選手としてのさらなる活躍を祈らずにはいられない。
新潟県出身選手といえば、社会人となってからも活躍している服部勇馬選手は、一昨日のニューイヤー駅伝でも最終区区間賞を獲得する好走だった。
それと同じような、あるいはそれ以上の存在として活躍することを期待している。

ところで、25年ほど前に一緒に勤めた同僚は、大学の後輩に当たった。
だから、彼も立教大の応援をしていたのだ。
立教大は、18位に終わったが、健闘した。
繰り上げスタートとなることなく、最後までタスキ渡しが途切れずにゴールできた。
1・2・3年生ばかりのチームであり、今回の経験がきっと来年の立教大に生きることだろう。

ところで、その私の後輩は、新潟県立三条高校のバスケット部出身であった。
バスケ部の同級生に、岸本という名の人がいて、今でも付き合いがあるとのこと。
その方は、岸本選手の父君だという話を聞いた。
なるほど、岸本選手の出身校は、三条高校だった。

そんなこんなで、岸本選手の活躍と立教大の健闘を見られてうれしい復路の箱根駅伝であった。


【岸本選手と、バックアップに回った同学年の主将との給水渡し。これも感動的なシーンであった。】
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久しぶりにテレビであべ静江の歌を聴いたよ

2022-09-21 20:04:11 | ひと
何気なく見ていた今日のテレ朝系「徹子の部屋」のゲストは、あべ静江だった。
彼女が、今年3月に脳梗塞で入院したというニュースを聞いたことがあった。
話では、その後リハビリのために転院し、5月に仕事復帰を果たしたということだった。
私が高校生の頃にデビューした彼女。



番組内では、デビュー曲の「コーヒーショップで」を歌って聴かせてくれた。
いやあ、懐かしかった。
そのうえ、声にツヤがあって驚いた。
脳梗塞で入院、年齢も70歳だとのことから、ちょっとした懸念をもちながら見ていたのだが、それはまったくの杞憂だった。

それもそのはず、5月に退院してわずか1週間後、復帰コンサートを行い、無事にこなしたのだそうだ。
古希を迎えたが、これからもいい歌を歌い続けていきたいと話していた。
いいなあ。
とても頼もしい。

最近は、いろいろな歌手が引退したり歌うのをやめたりしたニュースをよく聞く。
そんななかで、これからも歌い続けるという宣言は、とても心強い。
ちょっとした勇気をもらったような気がした。

懐かしいあべ静江の歌。
「コーヒーショップで」のほかにも、お気に入りだった「生まれたままの姿で」や「突然の愛」など、いろいろ聴きたくなったよ🎵😄
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長崎市平和祈念式典の報道を見て

2022-08-09 21:48:47 | ひと
8月9日。
長崎に原爆が投下された日。
広島には行ったことがあるので、原爆ドームを見たり原爆資料館に入って展示物を見たりしたことはある。
だが、長崎には行ったことがない。
広島に次ぐ、2番目の被爆地、長崎。
だからといって関心を薄くしてはいけないという思いがある。

今年も長崎市平和祈念式典が行われた。
記念式典ではなく「祈念式典」。
死者を慰霊し、世界の恒久平和を祈念するための式典だ。

式典の中で、長崎市の田上市長が平和宣言を読み上げた。
その中で印象的だったのは、「核兵器を持っていても使われないだろうというのは幻想だ」ということを言っていたことだ。
ウクライナへの侵攻で、ロシアは、核の使用をほのめかして脅かしていることを上げて言っていた。
そのうえで、「核兵器をなくすことが、未来を守るための唯一の現実的な道だ」と訴えた。

また、被爆者の代表として「平和の誓い」を読み上げた、82歳の宮田さん。
被爆したのは5歳のときだった。
その誓いの中にあった言葉。
「ウクライナに鳴り響く空襲警報のサイレンは、あのピカドンの恐怖そのものだった」
ここでも、自身の77年前の被爆体験と現在のウクライナ侵攻を重ねながら、核廃絶を訴えていた。

77年前の惨禍も、現在のウクライナの危機も、どちらも自分たちのものとして考えていることが分かり、切実感があった。
たしかにそうなのだ。
他人ごとでなく自分ごとに感じられることが、平和に近づく一歩なのだ。
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