今朝はちょっと寒いくらいでした。爽やかな、秋らしい朝です。日中28度くらいまでは気温が上がりましたが、からりとしていました。やっと、北海道は「夏」脱出です。
昨晩は高校時代の友人と、デイープな居酒屋に行きましたら、北海道に珍しいホッピーが、思わず沢山飲んじゃいました。
さて、話題は急に・・・・お薬。
ご存知の通りペニシリンは1928年イギリスの生化学者、アレクサンダーフレミングによって、青カビ汁から見出されましたことは大変有名で教科書にも載っていますね。
しかし、フレミングの化学の知識ではペニシリンを単離することもできず、「抗菌物質の存在」と青カビの学名からペニシリンと名付けたことに留まっていのだそうです。
1940年に、ハワード・フローリーとエルンスト・ポリス・チェーンと言う人がが単離(実際にはペニシリンG、ペニシリンGの混合物)に成功、凍結乾燥技術によりある程度の量の製造にも成功していました。
そして、フローリーの部下であるノーマン・ヒートリーという化学者がその実用性を証明しましたのだそうです。
「1940年5月、空襲管制のため真っ暗なオクスフォードの町の実験室、ヒートリーは連鎖球菌を注入したマウスで実験をしました。
ペニシリン注射しなかった4匹のネズミは朝までに全て死んでしまったのに対して、ペニシリン注射をしたマウスはすべて大丈夫だったそうです。」(抜粋)
これで、ペニシリンの実用性が証明されましたが、臨床に応用するにはペニシリンが足りず、まだ大量生産ができませんでした。戦争中で物資、工場がなかったのです。
カビの培養は通常ガラス容器で行うのですが、ヒートリーは陶器製容器で培養する方法を考案し、一定程度の生産までできたとのこと。これにより、ペニシリンの量は臨床実験に用いることができるレベルに達しました。
彼らは、さらにバラの刺でけががきっかけで、ブドウ球菌と連鎖球菌の感染で瀕死の警察官に処方したところペニシリン投与後、その警察官は直ちに快方に向かったそうです。しかし、その警官はペニシリン投与終了後10日ほどで再び感染症が悪化し、死亡してしまいました。まだペニシリンの供給が十分でなかったのが原因だそうです。
フローリーとヒートリーはさらに数例の臨床例をあわせて、論文(ランセット誌)として発表しました。が、結局商業ベースに乗せたのは財政豊かなアメリカのロックフェラー財団とアンドリュー・J・モイヤーだったとのこと。アメリカで培養法を改良して、実用化に十分な生産方法を確立しました。
第二次世界大戦の真っただ中、ペニシリンの登場は計り知れない多くの兵士の命を救い、「魔法の薬」となりペニシリン神話が出来たわけです。
ペニシリンの功績をたたえて1945年にノーベル生理医学賞が与えられていますが、受賞したのはフレミング、フローリー、チェインで、大部分を手掛けたヒートリーは受賞していません。
ノーベル賞には各部門3人までという制限があるからだそうです。
イギリス人であるフレミングが発見して、イギリスオクスフォードのフローリー、ヒートリーが開発したペニシリンですが、最終段階がアメリカであったために、ペニシリンの特許料はイギリスにはほとんど入っておらず、それどころか、イギリス人でさえアメリカに支払っているのもそのような経過からです。
テレビドラマ「仁」では青カビからペニシリンを製造していましたが、徳川家康がカビの汁で、刀傷をいやしたという伝承もあるのであながちうそではないかも。
昨晩は高校時代の友人と、デイープな居酒屋に行きましたら、北海道に珍しいホッピーが、思わず沢山飲んじゃいました。
さて、話題は急に・・・・お薬。
ご存知の通りペニシリンは1928年イギリスの生化学者、アレクサンダーフレミングによって、青カビ汁から見出されましたことは大変有名で教科書にも載っていますね。
しかし、フレミングの化学の知識ではペニシリンを単離することもできず、「抗菌物質の存在」と青カビの学名からペニシリンと名付けたことに留まっていのだそうです。
1940年に、ハワード・フローリーとエルンスト・ポリス・チェーンと言う人がが単離(実際にはペニシリンG、ペニシリンGの混合物)に成功、凍結乾燥技術によりある程度の量の製造にも成功していました。
そして、フローリーの部下であるノーマン・ヒートリーという化学者がその実用性を証明しましたのだそうです。
「1940年5月、空襲管制のため真っ暗なオクスフォードの町の実験室、ヒートリーは連鎖球菌を注入したマウスで実験をしました。
ペニシリン注射しなかった4匹のネズミは朝までに全て死んでしまったのに対して、ペニシリン注射をしたマウスはすべて大丈夫だったそうです。」(抜粋)
これで、ペニシリンの実用性が証明されましたが、臨床に応用するにはペニシリンが足りず、まだ大量生産ができませんでした。戦争中で物資、工場がなかったのです。
カビの培養は通常ガラス容器で行うのですが、ヒートリーは陶器製容器で培養する方法を考案し、一定程度の生産までできたとのこと。これにより、ペニシリンの量は臨床実験に用いることができるレベルに達しました。
彼らは、さらにバラの刺でけががきっかけで、ブドウ球菌と連鎖球菌の感染で瀕死の警察官に処方したところペニシリン投与後、その警察官は直ちに快方に向かったそうです。しかし、その警官はペニシリン投与終了後10日ほどで再び感染症が悪化し、死亡してしまいました。まだペニシリンの供給が十分でなかったのが原因だそうです。
フローリーとヒートリーはさらに数例の臨床例をあわせて、論文(ランセット誌)として発表しました。が、結局商業ベースに乗せたのは財政豊かなアメリカのロックフェラー財団とアンドリュー・J・モイヤーだったとのこと。アメリカで培養法を改良して、実用化に十分な生産方法を確立しました。
第二次世界大戦の真っただ中、ペニシリンの登場は計り知れない多くの兵士の命を救い、「魔法の薬」となりペニシリン神話が出来たわけです。
ペニシリンの功績をたたえて1945年にノーベル生理医学賞が与えられていますが、受賞したのはフレミング、フローリー、チェインで、大部分を手掛けたヒートリーは受賞していません。
ノーベル賞には各部門3人までという制限があるからだそうです。
イギリス人であるフレミングが発見して、イギリスオクスフォードのフローリー、ヒートリーが開発したペニシリンですが、最終段階がアメリカであったために、ペニシリンの特許料はイギリスにはほとんど入っておらず、それどころか、イギリス人でさえアメリカに支払っているのもそのような経過からです。
テレビドラマ「仁」では青カビからペニシリンを製造していましたが、徳川家康がカビの汁で、刀傷をいやしたという伝承もあるのであながちうそではないかも。