32:市川男女蔵の富田兵太郎
この図は、寛政六年七月、河原崎座で上演の「二本松陸奥生長」の市川男女蔵役富田兵太郎を描いた作で、父親の介太夫が川島治部五郎に殺害される場にかけつけ、闇夜に提灯を治部五郎に差しつけ、刀に手をかけている姿は、「二世大谷鬼次の治部五郎」と対になるものである。
暗夜を行く不安定な気分が、その足の運びに如実に示され、この役柄の表情が完全に描出されている。
一見平凡に見えていて、写楽の神経の細かい観察力の非凡な手腕を知ることができる。
着物の薄紫に、袴の濃い草色か、背色の鼠地と落ち着いた配色を見せ、「二世大谷鬼次の治部五郎」と併せ見ることによって、さらに効果的である。
落款は東洲斎写楽であって、同じ細判でも、後の単に「写楽画」とあるものとは格段の出来栄えである
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この図は、寛政六年七月、河原崎座で上演の「二本松陸奥生長」の市川男女蔵役富田兵太郎を描いた作で、父親の介太夫が川島治部五郎に殺害される場にかけつけ、闇夜に提灯を治部五郎に差しつけ、刀に手をかけている姿は、「二世大谷鬼次の治部五郎」と対になるものである。
暗夜を行く不安定な気分が、その足の運びに如実に示され、この役柄の表情が完全に描出されている。
一見平凡に見えていて、写楽の神経の細かい観察力の非凡な手腕を知ることができる。
着物の薄紫に、袴の濃い草色か、背色の鼠地と落ち着いた配色を見せ、「二世大谷鬼次の治部五郎」と併せ見ることによって、さらに効果的である。
落款は東洲斎写楽であって、同じ細判でも、後の単に「写楽画」とあるものとは格段の出来栄えである
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
お帰りなさい。
ずいぶんお会いしていないような気がしますね。
ほんの二三日なのですが。
私は今日は県南の山へ軽登山。
明日明後日と拙い写真をアップしますのでご覧ください。
途中でカマキリにも会い管理人さんを思い出しました。
夕方佐渡へと着きまして、色々家事をしてから
皆さんのサイトを訪問。もう23時になろうとして
います。明日もまた早い出勤。
さて、こうして今日もこちらで写楽。しばらく見
ましてほっと一息の今です。
今日は暖かっかったですね。
快適な軽登山でした。
拙いですが、写真はまたアップさせていただきます。
落款ですが時代によって使い分けていたということでしょう。
選挙、予想以上の状態ですね。
私の選挙区では、橋本龍太郎さんの息子さんが民社候補を破って返り咲きました。
写楽ですね。。。
しっかり読ませていただきまして、
この印象画を心に焼き付けました。
落款は東洲斎写楽、「写楽画」もですか。
私には、この謎はよく分かりませんです。
あぁ~謎ではなくて、
和気でなくて、わけでした。。。
今日は、思いのほか暖かくて助かりました。
いつも、ありがとうございます~♪