24・島田(大井川駿岸)
藤枝から八.八粁で島田宿に達するが、ここは大井川の東岸である。大井川は「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」の馬子唄にもあるように、一朝雨が降ると水かさが増して川止めとなって渡渉は出来ない。そのために、東岸の島田と西岸の金谷の二宿は旅人の足だまりであった。広重は、この島田と対岸の金谷ともに大井川の川渡しのさまを描いている。島田の方の画題は「大井川駿岸」である。
川渡しの図は、小田原・府中・金谷も似た構図であるが、その視角を変えて、それぞれに変化がある。島田は河原の俯瞰図で、川を渡ろうとする大名行列や、その他多くの旅人が、川渡りの準備をしている有様がいかにも生き生きと描かれている。また、これら河原の人々の着衣は、いろいろの色彩があって、その美しさが、河原の明るさを現出させている。この図には色彩が異なっている版がある。色を二色ですませている絵で、これは異版というより完全な後版である。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤枝から八.八粁で島田宿に達するが、ここは大井川の東岸である。大井川は「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」の馬子唄にもあるように、一朝雨が降ると水かさが増して川止めとなって渡渉は出来ない。そのために、東岸の島田と西岸の金谷の二宿は旅人の足だまりであった。広重は、この島田と対岸の金谷ともに大井川の川渡しのさまを描いている。島田の方の画題は「大井川駿岸」である。
川渡しの図は、小田原・府中・金谷も似た構図であるが、その視角を変えて、それぞれに変化がある。島田は河原の俯瞰図で、川を渡ろうとする大名行列や、その他多くの旅人が、川渡りの準備をしている有様がいかにも生き生きと描かれている。また、これら河原の人々の着衣は、いろいろの色彩があって、その美しさが、河原の明るさを現出させている。この図には色彩が異なっている版がある。色を二色ですませている絵で、これは異版というより完全な後版である。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』