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日本男道記

ある日本男子の生き様

四弘誓願(しぐせいがん)

2008年12月12日 | お経を読む・理解する
舎利礼(しゃりらい)とは
四弘誓願(しぐせいがん)とは、菩薩が仏道を求めるとき、最初に立てる四つの誓願のこと。菩薩が普遍的に追求すべきものであるとされているため、全ての菩薩の共通の誓願である。読経の終わりなどによくお唱えされる願文。

誓願(せいがん)とは、仏道を志すものが願いを成就させるという誓いを立てること。 菩薩が一切衆生を救済するという願いと誓いを立て、願いが叶うまでは自分が涅槃には赴かないとする。大乗仏教徒によって強調された。また阿弥陀仏の本願も誓願と同じ。



原文
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

読み下し文
衆生は無辺なれども 誓って度せんことを願う。
煩悩は尽きることなけれども 誓って断ぜんことを願う。
法門は無量なれども 誓って学ばんことを願う。
仏道は無上なれども 誓って成ぜんことを願う

現代語訳
まず人々を救う利他行を第一に取り上げ、そのために自分の利己心克服し、正しい教えを学ぶ努力をして、はじめて仏道を歩み、自己完成に近づくことができるのだということを、自分自身にいい聞かせ、それが実現できるように願います。

「衆生無辺誓願度」衆生とは生きとし生けるものすべてのこと。無辺は限りがないということ。度は、渡すこと、導いたり、救ったりすること。
「煩悩無尽誓願断」煩悩は、わずらいや悩み、心の汚れ・穢れのこと。無尽は尽きることがない、滅びることがないということ。そして断は、悪を断ずること、断ち切ること。。
「法門無量誓願学」法門は仏の教え。無量は限りのない、図ることのできないということ。学は学ぶこと。従ってこの文は、仏の教えは、はかり知ることができないくらいありますが、必ず学ぶことをお誓い申し上げ舞う。
「仏道無上誓願成」仏道は、仏となるための教え悟りにいたるべき道のこと。無上は、これ以上のものがない、最高のものという。成は、実現とか、完成するということ。従ってこの文は、仏になるための道は、最高のものであり、必ず完成させることをお誓い申し上げます。



舎利礼(しゃりらい)2/2

2008年12月05日 | お経を読む・理解する
舎利礼(しゃりらい)とは
「舎利礼」という経文は、仏舎利、つまりお釈迦様のご遺骨を礼拝するときに唱える偈文。葬式の時などに読まれるが、その意味は、私たちの骨身を転じて、仏身にしようという願いがある。



原文
一身頂礼 万?梔~滿 釈迦如來(いっしんちょうらい まんとくえんまん しゃかにょらい)
真身舎利 本地法身 法界塔婆 我等礼敬(しんじんしゃーりー ほんぢーほっしん  ほうかいとうば がーとぅらいきょう)
爲我現身 入我我入(いーがーげんしん  にゅーがーがーにゅー)
仏加持故 我証菩提 以仏?b力(ぶっかーじーこー がーしょうぼーだい  いーぶつじんりき)
利?Y衆生 発菩提心 修菩薩行(りーやくしゅーじょう ほっぼーだいしん しゅうぼーさつぎょう)
円入円寂 平等大智 今将頂礼(どうにゅうえんじゃく びょうどうだいち こんしょうちょうらい)


読み下し文
我がために身を現じて入我我入したまえ、仏の加持の故に我は菩提を証し、仏の神力を以って衆生を利益(りやく)せん。
菩提の心を発(おこ)して菩薩の業を修し同じく円寂に入る。平等の大智を、今将に頂礼(ちょうらい)したてまつる。

現代語訳
仏様は私たちを救うため、いろいろ姿を変えて、私たちと一体となり、私たちを加護し、お悟りを開くようにと、神通力をもって私たちのために働きかけてくださっています。だから私たちは、悟りを開きたいと願う心を起こし、菩薩が行わねばならない修行をして、自他共に同じく仏さまになるようにと、仏さまの智慧に対して、いま私たちは礼拝致します。

「爲我現身」とは、仏さまが私たち衆生を救うため、いろいろと姿を変えて現れること。
「入我我入」とは、仏の身・口・意のはたらきが自己に入り、自己の身・口・意のはたらきが仏に入る。つまり、仏と自己が一体の境地になるということ。
「仏加持故」とは、仏が不可思議な力(加持)をもって衆生を護ってくださるがゆにということ。
「我証菩提」とは、私はお悟りを証しますということ。
「以仏?b力」とは、私の不可思議なはたらき、つまり神通力をもってということ。
「利?Y衆生」とは、世の人々のためになるようにするということ。
「発菩提心」とは、お悟りを得たいと願う心を起してということ。
「修菩薩行」とは、菩薩として行うべき行為を修行するということ。
「円入円寂」とは、自他共に同じく仏さまになるということ。円寂とは、涅槃に入ること、つまり仏さまになること。
「平等大智」とは、仏さまの智慧のこと。
「今将頂礼」とは、今将に最高の敬礼をし奉るということ。



舎利礼(しゃりらい)/1/2

2008年11月28日 | お経を読む・理解する
舎利礼(しゃりらい)とは
「舎利礼」という経文は、仏舎利、つまりお釈迦様のご遺骨を礼拝するときに唱える偈文。葬式の時などに読まれるが、その意味は、私たちの骨身を転じて、仏身にしようという願いがある。



原文
一身頂礼 万?梔~滿 釈迦如來(いっしんちょうらい まんとくえんまん しゃかにょらい)
真身舎利 本地法身 法界塔婆 我等礼敬(しんじんしゃーりー ほんぢーほっしん  ほうかいとうば がーとぅらいきょう)

爲我現身 入我我入(いーがーげんしん  にゅーがーがーにゅー)
仏加持故 我証菩提 以仏?b力(ぶっかーじーこー がーしょうぼーだい  いーぶつじんりき)
利?Y衆生 発菩提心 修菩薩行(りーやくしゅーじょう ほっぼーだいしん しゅうぼーさつぎょう)
円入円寂 平等大智 今将頂礼(どうにゅうえんじゃく びょうどうだいち こんしょうちょうらい)

読み下し文
一心に頂礼したてまつる。万得円満なる釈迦如来の真身舎利は、本地法身の百法界塔婆なり、我らは礼敬したてまつる。

現代語訳
一生懸命に仏様を礼拝します。何一つ欠けたところのない立派な仏様がお説きになった中道実相の真理は、一切の根本となる真理であり、また一切の功徳をあつめ持っているから私たちは礼拝いたします。

「一身頂礼」とは、一生懸命に礼拝する。頂礼は五体投地のこと。
「万?梔~滿」とは、あらゆる徳を欠けることなく具えている。
「釈迦如來」とは、悟りを開いて仏となられたお釈迦様のこと。
「真身舎利」とは、真身は、真理および真理のはたらきを身体としている仏のこと、舎利は、仏が説かれた中道実相の真理のこと。
「本地法身」とは、一切の根本となる真理。
「法界塔婆」は、法門はこの世界のありとあらゆるもののこと。塔婆は、仏の舎利が納められた塔=仏塔のこと。
「我等礼敬」の礼敬はうやまうこと。


開経偈(かいきょうげ)

2008年11月21日 | お経を読む・理解する
開経偈(かいきょうげ)とは
「開経」は、、すべての経典を読む前にお唱えするもの。
「偈」は、インドの梵語(サンスクリット語のガーターの漢語訳で「詩」「歌」などの意味がある。一行の文の語数が決まっており、「開経偈」の場合一行七語で、一定のリズムで唄のように読むことができるお経を「偈」という。



原文
無上甚深微妙法(むーじょうじんじんみみょうのほう)
百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)
我今見聞得受持(がーこんけんもんとくじゅーじー)
願解如来真実義(がんげーにょーらいしんじつぎー)

読み下し文
無上甚深微妙の法は、
百千万劫にも逢い遇ううこと難し、
我れ今、見聞し受持することを得たり、
願わくは如来真実の義を解したてまつらん。

現代語訳
あまりにも深く妙なる教えは、無限の時をへてもめぐりあうことはむずかしい。
今、わたくしはお経を見、仏の教えを聞き、拝受することができました。
どうか仏の真実の教えを理解させてください。

「無上」とは、この上もない最高のということ。
「甚深」とは、甚だ深いということで、浅薄なものではない。
「微妙」とは、いうにいわれず、説くに説かれず、何ともいえず不可思議な。
従って、「無上甚深微妙の法」は、これより以上の法門はなく、またこれにすぐる教えはないということ。
「劫」とは、とは、はかりしれない長時間。落語の寿限無(じゅげむ)に出てくる人の長い名前、「寿限無寿限無五劫の擦り切れ海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝るところに住むところやぶら小路のぶら小路パイポパイポパイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助」。この「五劫の擦り切れ」は1つの辺が数キロメートルの四角い岩を、天から舞い降りた天女が柔らかい布で、サラットなでる。これを百年に1回のペースで繰り返し、やがて石がすり減ってなくなってもまだ一劫は終わらない途方もない長い時間。それが百千万集まった歳月の中で、たった一回しか遭遇することのできない今の瞬間に、仏の教えを聞くことが出来るのだから、ここ好機を逃さず、しっかりと聞かねばならない。



三帰戒(さんきかい)

2008年11月14日 | お経を読む・理解する
三帰戒(さんきかい)とは
今から約2,500年前、お釈迦さま在世の時、当時のインドの人々は、この三帰依文を唱えて、お釈迦さまの弟子として入門の儀式を行ったと伝えられている。
以来、この三帰依文は広く世界の仏教徒によって大切に唱え継がれている。



原文
南無帰依仏・南無帰依法・南無帰依僧(なむきえぶつ・なむきえほう・なむきえそう)
帰依仏無上尊・帰依法離欲尊・帰依僧和合尊(きえぶつむじょうそん・きえほうりよくそん・きえそうわごうそん)
帰依仏竟・帰依法竟・帰依僧竟(きえぶつきょう・きえほうきょう・きえそうきょう)

読み下し文
南無、仏に帰依したてまつる。
南無、法に帰依したてまつる。
南無、僧に帰依したてまつる。
仏なる無上尊に帰依したてまつる。
法なる離欲尊に帰依したてまつる。
僧なる和合尊に帰依したてまつる。
仏に帰依し竟(おわ)る。
法に帰依し竟(おわ)る。
僧に帰依し竟(おわ)る。

現代語訳
三帰戒の「三」とは、仏(ぶつ)・法(ぽう)・僧(そう)の三宝(さんぽう)のこと。
仏教ではこの三宝を大切にする。
まず「仏」の宝路は、悟りを開かれたブッダお釈迦様のこと。
最も優れたお方という意味で「仏無上尊」(ぶつむじょうそん)という。
次に「法」とは、仏様のお悟りになった立派な真理や、その真理を説く教えや経典をいう。要するに般若心経などの経典などの仏の教え。それらの教えに従って努力すれば、必ずや一切の悪業や煩悩から離れて清い心になることができるので「法離欲尊」という。
そして「僧」は、仏様の慈悲の心を伝え、教えの道理を説いて、衆生を導く僧侶のこと。僧侶は、常に和合を保ち、戒律を守って修行に励み、真理にも和合し、自らも仏になろうと努力することから「僧和合尊」という。

仏の威徳に従って信心を捧げます。教え(法)に従って信心を捧げます。僧に従って信心を捧げます。
仏は最上に尊いものであるから、従っていきます。教えは欲を離れた清らかで尊いものであるから、従っていきます。僧は和合し尊いものであるから、従っていきます。
仏に従いました。教えに従いました。僧に従いました。



懺悔文

2008年11月07日 | お経を読む・理解する
懺悔文(さんげもん)とは
この経文は華厳経の「普賢行願品」から採った有名なものである。
さんげとは娑婆世界で云う懺悔(ざんげ)である。その「懺悔(ざんげ)」の文字が示すとおり、自分の今まで犯してきた悪い行いやあやまちを、自らしっかり認識し、告白し、改めることを述べた文言です。
日本の仏教諸派に於いて、開経偈・三帰依文・誓願(四弘誓願)などと並び、在家檀信徒の日常の読経に広く用いられており、和文を読むことも多い。



原文
我昔所造諸悪業 (がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴 (かいゆむしとんじんち)
従身口意之所生 (じゅうしんくいししょしょう)
一切我今皆懺悔 (いっさいがこんかいさんげ)

読み下し文
我(わ)れ昔(むかし)より造(つく)る所の諸(もろもろ)の悪業(あくごう)は、
皆(み)な無始(むし)の貪(とん)瞋(じん)痴(ち)に由(よ)り、
身(しん)語(ご)意(い)従(よ)り生(しょう)ずる所(ところ)なり。
一切(いっさい)を我(わ)れ今(いま)皆(み)な懺悔(さんげ)す。

現代語訳
私が昔からなしてきた様々な悪しき行いは、
すべて始まりもない太古からの貪りと怒りと愚かさを原因として、身体と言葉と心によってなされたものである。
それら全てを私は今みな懺悔する。
「貪(むさぼり)」「瞋(いかり)」「痴(おろかさ)」は、生命の三つの根本的煩悩であり、仏教ではこれを「三毒(さんどく)」と呼んでいる。
この三毒が原因で、それらは身(からだ)・口(ことば)・意(こころ)の三業によってなされるものだと説く。
ワレワレは、それらの悪行をしていないかどうか、常に反省し、改めるべきものは改め、真人間になれるように仏の前で懺悔する。