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日本男道記

ある日本男子の生き様

座禅和讃14

2009年03月27日 | お経を読む・理解する
此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに、とは
「此の時何をか求むべき」とは、悟りを開いたこの時より、もはや何も求めるものがない。
「寂滅現前するゆえに」の「寂滅」とはインドの梵語(サンスクリット語)の「ニルヴァーナ」のことで、漢訳では涅槃といい、燃え尽きるということで円寂ともいう。従ってこの句は、悟りが今、現実にそこにはたらいているかために、何も求めるべきものがなくなってしまったということ。
 
座禅和讃は、江戸時代中期に活躍した僧侶・白隠禅師が著述したもので、大変深い内容を持つ和文で書かれたお経。和讃というのは、声明(しょうみょう)の一つで、日本語で書かれてあり、何らかの功徳を讃えるために作られる長い七五調の歌のこと。この座禅和算は、座禅の功徳を讃えたもの。
『座禅和讃全文』
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬へば水の中に居て 
渇を叫ぶがごときなり 長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 賞嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 
念仏 懺悔 修行等 其の品多き諸善行 皆此のうちに帰するなり
一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳に触るるとき 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし 
いはんや自ら廻向して 直に自性を証すれば 
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり 
因果一如の門ひらけ 
無二無三の道直し 無相の相を相として 
往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の声三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん  此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに 当処即ち蓮華国  此の身即ち仏なり








座禅和讃13

2009年03月20日 | お経を読む・理解する
四智円明の月さえん、とは
「四智」とは、仏様gが持っておられる四種類の智慧のことで、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の四つを言う。
「大円鏡智(だいえんきょうち)」鏡のように一切を明らかにする智慧、また鏡のような清浄無垢な心のこと。
「平等性智(びょうどうしょうち)」一切のものが平等であると理解する智慧。この、平等性智こそ、太陽が作物や雑草に至るまで区別なく平等に光を降りそそぐように、善人も悪人も区別なく、一切の衆生を仏の慈悲で救っていく、仏の大智であり、大慈の根本である。
「妙観察智(みょうかんさっち)」対象について充分に観察することによって、望むままに自由自在にはたらく智慧のこと。
「成所作智(じょうしょさち)」なすべきことを実行する、なすべきことをなしとげる智慧のこと。
「円明(えんみょう)とは見事で完全なこと、円満明朗のこと。
 
座禅和讃は、江戸時代中期に活躍した僧侶・白隠禅師が著述したもので、大変深い内容を持つ和文で書かれたお経。和讃というのは、声明(しょうみょう)の一つで、日本語で書かれてあり、何らかの功徳を讃えるために作られる長い七五調の歌のこと。この座禅和算は、座禅の功徳を讃えたもの。
『座禅和讃全文』
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬へば水の中に居て 
渇を叫ぶがごときなり 長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 賞嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 
念仏 懺悔 修行等 其の品多き諸善行 皆此のうちに帰するなり
一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳に触るるとき 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし 
いはんや自ら廻向して 直に自性を証すれば 
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり 
因果一如の門ひらけ 
無二無三の道直し 無相の相を相として 
往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の声三昧無礙の空ひろく四智円明の月さえん  此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国  此の身即ち仏なり








座禅和讃12

2009年03月13日 | お経を読む・理解する
三昧無礙の空ひろく、とは
「三昧」とは、贅沢三昧とか読書三昧など日常使われるように、心が静かに統一されて、安らかになっている状態を指す言葉。つまり、何ものかに集中することによって、心が安定した状態に入ること。
「無礙」の「礙」とは、さまたげるというこから、「無礙」は、さまたげるないということで、つまり、何ものにもとらわれず自由自在であるということ。
「空ひろく」は、字のとおり、空は限りなく広いということ。
従って、この句は、自性を証することによって、その境地は、ひとつのことに心を集中して、邪念がなく、そして何ものにもとらわれずに自由自在で、まさに限りなく広い大空のようだということ。
 
座禅和讃は、江戸時代中期に活躍した僧侶・白隠禅師が著述したもので、大変深い内容を持つ和文で書かれたお経。和讃というのは、声明(しょうみょう)の一つで、日本語で書かれてあり、何らかの功徳を讃えるために作られる長い七五調の歌のこと。この座禅和算は、座禅の功徳を讃えたもの。
『座禅和讃全文』
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬へば水の中に居て 
渇を叫ぶがごときなり 長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 賞嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 
念仏 懺悔 修行等 其の品多き諸善行 皆此のうちに帰するなり
一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳に触るるとき 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし 
いはんや自ら廻向して 直に自性を証すれば 
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり 
因果一如の門ひらけ 
無二無三の道直し 無相の相を相として 
往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の声三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん 此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国  此の身即ち仏なり






座禅和讃11

2009年03月06日 | お経を読む・理解する
往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の声 、とは
「往くも帰るも」とは、行ったり来たり場所を変えること。「余所ならず」とは、余所ではない、場所が変わっても関係がない。つまりどこにいようとそんな場所にとらわれないということ。その場その場が、自分に与えられた最良の場所だと受け取れるならば「往くも帰るも余所ならず」といえる。
次に「念」とは、極めて短い時間のことだが、ここでは、いつも心に思っているということ。いつも心に思っているから、それが雑念となり、妄念となり、煩悩となってさらに執着となり、心から離れることが出来なくなる、これを自我意識という。ところが、この念が無念になれば、いつも心に思っている雑念も妄念も煩悩も執着もなくなってしまい、「明鏡止水」の状態になる。 
「謡ふも舞ふも法の声」は、目に見えるもの、耳に聞こえるものすべてがありがたい教えの声となって聞こえるということ。 
 
座禅和讃は、江戸時代中期に活躍した僧侶・白隠禅師が著述したもので、大変深い内容を持つ和文で書かれたお経。和讃というのは、声明(しょうみょう)の一つで、日本語で書かれてあり、何らかの功徳を讃えるために作られる長い七五調の歌のこと。この座禅和算は、座禅の功徳を讃えたもの。
『座禅和讃全文』
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬へば水の中に居て 
渇を叫ぶがごときなり 長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 賞嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 
念仏 懺悔 修行等 其の品多き諸善行 皆此のうちに帰するなり
一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳に触るるとき 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし 
いはんや自ら廻向して 直に自性を証すれば 
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり 
因果一如の門ひらけ 
無二無三の道直し 無相の相を相として 
往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の声 三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん 此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国  此の身即ち仏なり







座禅和讃10

2009年02月27日 | お経を読む・理解する
無相の相を相として、とは
相というのは、外に現れている姿や形のこと。仏教ではこの相を四相(しそう)と
いって、生・住・異・滅で説明している。
生とは、生じること。
住とは、状態を保つこと。
異とは、変化すること。
滅とは、なくなること。
したがって無相とは、相がないということだから、先の四相がないということ。
姿や形は、本来、現象として現れているもので、実体的な姿や形はないから、一応は姿や形を認めながら、それにとらわれないというのが無相。
このような仏心・仏性には、もとより姿や形はないが、現象として人間の行いや言動に現われることがある、これが無相の相。
 
座禅和讃は、江戸時代中期に活躍した僧侶・白隠禅師が著述したもので、大変深い内容を持つ和文で書かれたお経。和讃というのは、声明(しょうみょう)の一つで、日本語で書かれてあり、何らかの功徳を讃えるために作られる長い七五調の歌のこと。この座禅和算は、座禅の功徳を讃えたもの。
『座禅和讃全文』
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬へば水の中に居て 
渇を叫ぶがごときなり 長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 賞嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 
念仏 懺悔 修行等 其の品多き諸善行 皆此のうちに帰するなり
一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳に触るるとき 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし 
いはんや自ら廻向して 直に自性を証すれば 
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり 
因果一如の門ひらけ 
無二無三の道直し 無相の相を相として 
往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の声 三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん 此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国  此の身即ち仏なり








座禅和讃9

2009年02月20日 | お経を読む・理解する
無二無三の道直し、とは
仏教では、悟りに到る実践法として、それぞれ人の能力や素質に応じて三つの乗り物があるとされている。
声聞乗(しょうもんじょう)仏の教えを聞いて自らの悟りを求めること。
縁覚乗(えんかくじょう)一人で自らの悟りを求めること。独覚乗ともいう。
菩薩乗(ぼさつじょう)仏道によって自らの悟りを求め、多くの人々をも救うということ。
この三つを三乗という。一般的には声聞乗・縁覚乗が小乗仏教で、菩薩乗が大乗仏教されるが、これはお釈迦様が、人々を導くために方便として説かれたもので、実はただ一つの真実の教えがあるのみで、それによって衆生は、すべて仏になれるというのが真の大乗仏教、これを一乗とか、一仏乗という。
大乗仏教の経典である法華経に、「ただ一仏乗をもって故にのみ、衆生のためにをときたもう。余乗の若しくはニ、若しくは三あることなし」とある。これが無二無三。
 
座禅和讃は、江戸時代中期に活躍した僧侶・白隠禅師が著述したもので、大変深い内容を持つ和文で書かれたお経。和讃というのは、声明(しょうみょう)の一つで、日本語で書かれてあり、何らかの功徳を讃えるために作られる長い七五調の歌のこと。この座禅和算は、座禅の功徳を讃えたもの。
『座禅和讃全文』
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬へば水の中に居て 
渇を叫ぶがごときなり 長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 賞嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 
念仏 懺悔 修行等 其の品多き諸善行 皆此のうちに帰するなり
一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳に触るるとき 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし 
いはんや自ら廻向して 直に自性を証すれば 
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり 
因果一如の門ひらけ 
無二無三の道直し 無相の相を相として 
往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の声 三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん 此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国  此の身即ち仏なり








座禅和讃8

2009年02月13日 | お経を読む・理解する
因果一如の門ひらけ、とは
「因果」因は原因、果は結果のこと。しかし、その因と果との間には「縁」がある。したがって因果は因果縁が正しい。
「一如」というのは同一とか不二とかということ、つまり、全く等しくて同体同一であるということ。
因果一如とは、何事、も因があって果があるから、因と果は別のもので二つのものと考えられがちだが実は、果の中には次の結果を生ずる原因が宿っているから、因と果は結局、同じものといえる。そこで因果一如という。
修行が因で、悟りが果であって、努力が縁と考えれば、これも因果一如で、修行がそのまま悟りになる。
 
座禅和讃は、江戸時代中期に活躍した僧侶・白隠禅師が著述したもので、大変深い内容を持つ和文で書かれたお経。和讃というのは、声明(しょうみょう)の一つで、日本語で書かれてあり、何らかの功徳を讃えるために作られる長い七五調の歌のこと。この座禅和算は、座禅の功徳を讃えたもの。
『座禅和讃全文』
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬へば水の中に居て 
渇を叫ぶがごときなり 長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 賞嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 
念仏 懺悔 修行等 其の品多き諸善行 皆此のうちに帰するなり
一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳に触るるとき 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし 
いはんや自ら廻向して 直に自性を証すれば 
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり 
因果一如の門ひらけ 
無二無三の道直し 無相の相を相として 
往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の声 三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん 此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国  此の身即ち仏なり








座禅和讃7

2009年02月06日 | お経を読む・理解する
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり、とは
折角掴んだ自性は「無性」だった。無性とは、固定した実体のないことで、またそのようなものが実在しないということだから、それは空。
したがって、自性も、どちらも空ということ。
無益で冗漫な論議を離れることによって、自性を掴むことになり、自性は無性だから空。つまり、空の自覚をするということ。
 
座禅和讃は、江戸時代中期に活躍した僧侶・白隠禅師が著述したもので、大変深い内容を持つ和文で書かれたお経。和讃というのは、声明(しょうみょう)の一つで、日本語で書かれてあり、何らかの功徳を讃えるために作られる長い七五調の歌のこと。この座禅和算は、座禅の功徳を讃えたもの。
『座禅和讃全文』
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬へば水の中に居て 
渇を叫ぶがごときなり 長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 賞嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 
念仏 懺悔 修行等 其の品多き諸善行 皆此のうちに帰するなり
一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳に触るるとき 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし 
いはんや自ら廻向して 直に自性を証すれば 
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり 
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 無相の相を相として 
往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の声 三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん 此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国  此の身即ち仏なり









座禅和讃6

2009年01月30日 | お経を読む・理解する
いはんや自ら廻向して 直に自性を証すれば、とは
「自ら廻向して」は、禅の修行の眼を外に向けず、内に向けること。
「自性を証する」は、自己の内に向かって自性をはっきりとつかむということ。
自性の性とは、自分が生まれながらに持っているもので、永遠に変わることのないもののこと。
したがって、自性とは、自分が生まれながらに持っている根源的なものであり、自己の本性のこと。
 
座禅和讃は、江戸時代中期に活躍した僧侶・白隠禅師が著述したもので、大変深い内容を持つ和文で書かれたお経。和讃というのは、声明(しょうみょう)の一つで、日本語で書かれてあり、何らかの功徳を讃えるために作られる長い七五調の歌のこと。この座禅和算は、座禅の功徳を讃えたもの。
『座禅和讃全文』
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬へば水の中に居て 
渇を叫ぶがごときなり 長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 賞嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 
念仏 懺悔 修行等 其の品多き諸善行 皆此のうちに帰するなり
一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳に触るるとき 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし
いはんや自ら廻向して 直に自性を証すれば 
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり 因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 無相の相を相として 
往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の声 三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん 此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国  此の身即ち仏なり








座禅和讃5

2009年01月23日 | お経を読む・理解する
一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳に触るるとき 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし、とは

たとえわずかな座禅であっても、一生懸命に座禅をするならば、積んできた罪も消滅し、成仏すること疑いなしである。
また、迷わなければならないような悪趣の世界がどこにあるのか、悟りが開けるならば、遠いところに浄土があるのではなく、ここ、つまり、この現実の世界がそのまま浄土になる。
ありがたいこの教えを、一度聞くことがるとき、心から讃嘆し、あいがたく思える人は、単なる欲望でない福を限りなく得ることができる。
 
座禅和讃は、江戸時代中期に活躍した僧侶・白隠禅師が著述したもので、大変深い内容を持つ和文で書かれたお経。和讃というのは、声明(しょうみょう)の一つで、日本語で書かれてあり、何らかの功徳を讃えるために作られる長い七五調の歌のこと。この座禅和算は、座禅の功徳を讃えたもの。
『座禅和讃全文』
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬へば水の中に居て 
渇を叫ぶがごときなり 長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 賞嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 
念仏 懺悔 修行等 其の品多き諸善行 皆此のうちに帰するなり
一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳に触るるとき 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし
 
いはんや自ら廻向して 直に自性を証すれば 自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり 因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 無相の相を相として 
往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の声 三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん 此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国  此の身即ち仏なり








座禅和讃4

2009年01月16日 | お経を読む・理解する
夫れ摩訶衍の禅定は 賞嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 
念仏懺悔修行等 其の品多き諸善行 皆此のうちに帰するなり、とは

「摩訶衍」の摩訶とは「大いなる」とか「非常に」ということ。衍は乗り物のことで、摩訶衍とは、大きい乗り物のこと、つまり大乗のこと。仏教は小乗仏教と大乗仏教に区分されるが、そのうちの大乗仏教のこと。禅定は禅のこと。
「賞嘆」とは、ほめて感心すること。「余りあり」とは、多くて残るくらいだということで、つまり、大乗禅は褒め称えても、ほめ余りが残るくらい素晴らしいものであるということ。
「布施」は施し、「持戒」は戒律を保つこと。「諸波羅蜜」とは、布施、持戒以外の波羅蜜、つまり忍辱・精進・禅定・智慧のことで、六波羅蜜の全てを指す。この
六波羅蜜は、大乗仏教の大切な徳目。
しかし、迷いの此岸から悟りの彼岸に至る道は、六波羅蜜だけでなく、「念仏懺悔修行等」とあるように、念仏という道もあれば、懺悔という道もあり、修行もある。
つまり、大乗禅の体験には、念仏や懺悔はもちろん。たくさんの諸修行があるが、これらはすべて悟りを開くための手段であるということ。

 
座禅和讃は、江戸時代中期に活躍した僧侶・白隠禅師が著述したもので、大変深い内容を持つ和文で書かれたお経。和讃というのは、声明(しょうみょう)の一つで、日本語で書かれてあり、何らかの功徳を讃えるために作られる長い七五調の歌のこと。この座禅和算は、座禅の功徳を讃えたもの。
『座禅和讃全文』
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬へば水の中に居て 
渇を叫ぶがごときなり 長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 賞嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 
念仏 懺悔 修行等 其の品多き諸善行 皆此のうちに帰するなり

一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳に触るるとき 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし いはんや自ら廻向して 直に自性を証すれば 自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり 因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 無相の相を相として 
往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の声 三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん 此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国  此の身即ち仏なり








座禅和讃3

2009年01月09日 | お経を読む・理解する
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそへて いつか生死をはなるべき、とは
「六趣輪廻」とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界のこと、六道とも言う。これらは、私たちの業(ごう)の力によってその方向に趣いていくところから、六趣といわれる。私たち衆生は、この六趣の世界を生き変わり、死に変わり、その業力(ごうりき)によって、わのように回っているのだというので、六道輪廻という。
業というのは、行為のこと。私たちは生きている限り、何らかの行為をしているが、この行為には善悪がある。この業が、因となり、縁となり、そして果となる。
「愚痴の闇路」というのは、理性の欠けた無地買うな、盲目的な、そして光明のない生活をいう。
「愚痴」は、無明や煩悩と同じ意味で、迷いの根本原因。貧・瞋・痴の三毒ともいう。
生死をh馴れるというのは、悟りをひらくということ。
 
座禅和讃は、江戸時代中期に活躍した僧侶・白隠禅師が著述したもので、大変深い内容を持つ和文で書かれたお経。和讃というのは、声明(しょうみょう)の一つで、日本語で書かれてあり、何らかの功徳を讃えるために作られる長い七五調の歌のこと。この座禅和算は、座禅の功徳を讃えたもの。
『座禅和讃全文』
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬へば水の中に居て 
渇を叫ぶがごときなり 長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 賞嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 
念仏 懺悔 修行等 其の品多き諸善行 皆此のうちに帰するなり 一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳に触るるとき 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし いはんや自ら廻向して 直に自性を証すれば 自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり 因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 無相の相を相として 
往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の声 三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん 此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国  此の身即ち仏なり








座禅和讃2

2009年01月02日 | お経を読む・理解する
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬へば水の中に居て 渇を叫ぶがごときなり 長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず、とは
「衆生と仏は本来一つのものであり、遠い近いは関係ない。ただ、迷っているか、悟っているかの、違いであって、切り離して考えるべきものではない。にもかかわらず「仏は遠くにあるものとして、求めるはかなさよ。すなわち、水の中にいながら、のどが渇いたとさけんだり、お金持ちの家の子に生まれながら、貧しい、貧しいといっているようなもの。」という意味。
 
座禅和讃は、江戸時代中期に活躍した僧侶・白隠禅師が著述したもので、大変深い内容を持つ和文で書かれたお経。和讃というのは、声明(しょうみょう)の一つで、日本語で書かれてあり、何らかの功徳を讃えるために作られる長い七五調の歌のこと。この座禅和算は、座禅の功徳を讃えたもの。
『座禅和讃全文』
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬へば水の中に居て 
渇を叫ぶがごときなり 長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず

六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそへて いつか生死をはなるべき 夫れ摩訶衍の禅定は 賞嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 
念仏 懺悔 修行等 其の品多き諸善行 皆此のうちに帰するなり 一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳に触るるとき 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし いはんや自ら廻向して 直に自性を証すれば 自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり 因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 無相の相を相として 
往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の声 三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん 此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国  此の身即ち仏なり









座禅和讃1

2008年12月26日 | お経を読む・理解する
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし、とは
「これは大いなる霊力をもった言葉であり、明らかなる言葉であり、この上ない言葉であり、他に比類の無い言葉である」という意味。
呪は、梵語のマントラで、真言、真実にして偽りの無い言葉という意味。
 

『座禅和讃』
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬へば水の中に居て 
渇を叫ぶがごときなり 長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏みそへて いつか生死をはなるべき 夫れ摩訶衍の禅定は 賞嘆するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 
念仏 懺悔 修行等 其の品多き諸善行 皆此のうちに帰するなり 一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ 悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くも此の法を 一たび耳に触るるとき 讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし いはんや自ら廻向して 直に自性を証すれば 自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり 因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 無相の相を相として 
往くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 謡ふも舞ふも法の声 三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん 此の時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当処即ち蓮華国  此の身即ち仏なり








五観の偈

2008年12月19日 | お経を読む・理解する
五観の偈(ごかんのげ)とは
五観文(ごかんもん)ともいい、食事をする前にお唱えする経文。



偈文
一には功の多少を計(はか)り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。

 二には己が徳行(とくぎょう)の全欠を[と]忖(はか)つて供(く)に応(おう)ず。

 三には心を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす。

 四には正に良薬を事とすることは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり。

 五には成道(じょうどう)の為の故に今此(いまこ)の食(じき)を受く。

現代語訳
 一つ目には、この食事が調うまでの多くの人々の働きに思いをいたします。

 二つ目には、この食事を頂くにあたって自分の行いが相応しいものであるかどうかを反省します。

 三つ目には、心を正しく保ち過った行いを避けるために、貪りの心を持たないことを誓います。

 四つ目には、この食事を、身体を養い力を得るための良薬としていただきます。

 五つ目には、この食事を、仏様の教えを正しく成し遂げるためにいただきます。




食事五観の偈