【解読文】
大森筑前守 相列小田原の城之
北条相雲駿州高国寺城の城主なりしか
上杉民部大輔顕定( )両人ニ明應九年
乗とられ申候
明應九より寛永拾八己迄百四拾弐年ニ成る
山内上杉ハ越後上杉也 亡しハ相州上杉也
合両上杉と云也 上杉に亡され申候ハ相州上杉
相列ハ上杉修理大夫定政也
【解説】 平成24年11月 (大森史夫による)
この古文書は寛永18年(1641年)当時庄屋をしていた大森惣左衛門によって書かれたもので、この時点では先祖「大森筑前守」について書かれた何らかの文書が大森家に残されていたのではないかと思われる。
「大森筑前守」は上杉禅秀の乱後の1420年頃小田原に城を築き小田原城主となった大森頼春の子孫(三代後)で、大森藤頼か定頼と思われる。北条早雲(伊勢新九郎宗瑞)によって城を追われた時の最後の大森氏の城主だった。小田原城を退いた年を明應九年(1500年)としている。これは「関恒久・相模沼田城の歴史的背景」(駒沢史学二十二号)とも一致し、小田原市史の記述にあるように「文亀元年(1501年)に伊勢宗瑞によって小田原領の一部(小田原市内千代)が伊豆山権現に寄進されたことなどを考えると、明應5年7月から永正元年9月の間に大森氏は小田原城を退いた」としている記述とも符合する。